ノックとともに扉を開けると、
勝呂はぶつぶつと虚空に向けて暗唱しているところだった。
「あ、すんまへん、事典借りてくだけなんで」
こそこそ、と邪魔にならないように机の上にある事典を手にする。
勝呂がノートに走り書きする。
―ちょっとそこで待っててくれ
わかりました、と口にはせず頷いて、
勝呂のベッドに腰掛けて待つことにする。
ぽふ、と横になってみる。
坊の匂いや、と思う。
抱きしめたときにいつも嗅ぐ、
乾燥した草のような匂いと、うっすら香水が混ざったその香と同じ匂いに、
ちょっとくらっとする。
試験期間も明日で終わるが、
その前から最中にかけては当然勉強の邪魔をするわけにはいかず、
もちろん志摩自身も多少は勉強しなければならない。
あまりサボっていると勝呂の機嫌を損ねる場合もある。
だからこそ、あんまり接近しすぎないように気をつけている。
だが、実家にいるころは夜はそれぞれの家にいて自然と距離を置けたのだが、
今は寮にいるせいで、会おうと思えばいつでも会えるこの距離が、
とても耐えるに堪えられないところである。
我慢我慢、と言い聞かせ、すん、ともう一度匂いを吸い込んだ。
「…なにしてん、寝てんな人の部屋で」
「寝てるんちゃいます〜」
ようやく暗誦し終えた勝呂がベッドまで来ていた。
「休憩です?」
「あぁ、もう覚えたからええわ」
ベッドの端に腰掛ける。
「俺はまだあと半分覚えな〜。もうあかんわ」
ぼふ、と布団に顔をうずめて嘆くと、
「そうやろ思たから、俺のノート貸したろと思うたんやけどいらん?」
得意げにノートを見せ付ける勝呂に、
「ほしい!あ〜もう、坊優しい」
志摩は抱きつく。
とても自然な流れで抱きついた後、
ふと我に返って、あ、我慢しとったのにな、と思った。
勝呂は特に気にした様子もなく、
「暗記すんの、手伝ったるけど?」
と言う。
志摩は、少しどきどきする。
こういうときの勝呂は、本当に男前なのだ。
勉強も体力も努力して自分のものにして、それなのに面倒見がよくて、
自分に厳しく他人に優しい素直で真面目な勝呂を、
志摩はずっと憧れて、ずっと隣にいたいと思って、抱きしめたいと思って生きてきた。
いつも自分の何歩か先にいて、
追いつくのをきちんと手を差し出して待ってくれている。
その、手を差し出してくれているときの顔に、ずっと心を奪われている。
それがたぶん、こういうときの表情。
「…俺、そういうときの坊の顔、好きやわ」
勝呂は、はぁ?と気の抜けた返事。
「そういうときて、なんや」
「勉強教えてくれるとき。ほんま男前や」
「なんや、からかっとんのか腹立つ」
む、と睨み付けてくる勝呂に、
「からかってへんよ、こんなカッコええ人が俺のこと思うてくれてるんやって思うとほんま幸せになるわ」
しっかりと視線を合わせて言い放つ。
そのあとに、にこ、と笑うと、勝呂の顔が真っ赤になった。
「へ、変なこと言わんと…ほら、第1節からはじめぇや!」
必死に話を戻そうとする反応に、
少しだけ含み笑いしたあと、機嫌を損ねないように
「ほな、お手伝いお願いします」と言って、
えぇと、とうろ覚えの第1節を諳んじ始める。
間違えると、ここはこうやって覚えたらどうかと言ってくれたり、
わからない部分は解説付きで教えてくれる。
自分に翻弄されて真っ赤になっているかわいいところも愛しいが、
やっぱり自分にとってこの人は男惚れするカッコよさのある人だ、と思った。
おかげで明日の試験は、一応なんとか大丈夫そうである。
試験がそこそこできていれば、勝呂は少しくらいハメを外しても怒りはしないだろう。
たまりにたまった愛情をぶつけるまであと数時間。
これだけカッコいい勝呂が自分の前でだけ見せる顔が見れる。
―おそらく勝呂だって、多少は期待しているに違いないのだから。