残り香




一分一秒ももったいない!と思う朝、

わき目も振らず部屋から洗面所に走りこんで

とにかく身支度を整える。

ひーひー、あかんーと、口からはこんな言葉しか出てこない。

ばしゃばしゃ顔を洗って、

髪の毛もどうにかこうにか寝癖を直して…と

鏡を睨みつけてドライヤーを頭に当てていると、

そこに見知った顔が写りこむ。

「今日も寝坊か」

「二度寝してもうたんです〜」

「お前は起きる気ないだけやろ」

吐き捨てるように言う勝呂は、

もうとっくに準備万端で、慌てる俺の様子を見に来ただけのようだ。

「先行っとるからな」

はい、と情けない顔で志摩は返事を返す。

「あ。朝飯に握り飯頼んどいたから受け取ってから来ぃや」

おおきに〜、とまたまた情けない顔で答える。

全く、どうしてこんなにいろんなことを抜け目なくできるのだろう。

不思議でしょうがない。

ほな、と勝呂が横切ったとき、ふいに志摩は気が付いた。

―あれれ、またこの人背伸びしはったな。

残り香が昨日までと違う。

昨日までは清潔な石鹸の匂いとワックスの匂いしかしなかったのに、

今日は深い真水のような香りが後に残った。

「坊」

「なんや」

「ん〜ん、なんでもないです。えぇ匂いやね」

鏡越しに、にんまり笑ってみせる。

勝呂は真っ赤になって、うるさい、と舌打ちして、

眉間に皺を寄せしながら鏡の中から消えていく。

いつの間に香水なんて買うたんやろ、と志摩は思った。

髪の毛を染めたり、ピアスをしたり、

ただの生真面目に見られたくないこの人は、

いつだって真剣に背伸びする。

しかし、その背伸びの仕方は

志摩家の兄達を真似ているのだろうというのが、

近くにいるからよくわかってしまう。

秀才型のこの人は、少し悪ぶるということにすら勉強家なのだ。

そして、それに気付かれたと思うから、

勝呂は恥ずかしがって志摩にあんな態度を取るのだ。


―その似合わへん背伸び、ほんまかわいらしいわ。


もうちょっと早起きしておけば、もっと勝呂をからかえたかと思うと、

若干の後悔を感じる。

志摩はもう一度、すんと残り香を嗅いだ。

香水の中に、隠れている勝呂らしい匂いを、

ほんの少しだが感じたような気がした。