志摩は旅館の裏にある勝手口から顔を出した。
外気とはうってかわって篭った熱に、
寒さで凍えていた皮膚がじんわりと溶け出すように緩む。
「あら、こんばんは。
竜士なら仏頂面して部屋に行ったっきり戻ってけぇへんわ。
…なんや学校であったん?」
女将さんは夜のお客の夕食準備をしている。
調理場はせわしなく、ざわついている。いつものことだ。
「…あがらしてもらいますわ〜」
喧騒にさりげなく溶け込んで、志摩は家の中へと入って行った。
ここには、美味しそうな煮物の匂いが、そこかしこと漂っていた。
少し奥の、母屋の部分に入るととたんに静かになる。
ほんの数歩前とは打って変わった、ひんやりとした空気。
戸は、内側から拒絶反応を示すように固く閉ざされている。
とんとん、と指先で叩き、声を掛ける。
「坊、入るえ」
返事はなかったが、戸を開けた。
そのくらいは許されている間柄だ。
真っ暗な部屋。
「電気も付けんと、なにしてはるん」
言葉が宙に浮くような暗闇と沈黙。
返事はない。
ベッドに無造作に寝転んだ人陰に近づいて、横に腰掛ける。
「なんや、泣いとったん?」
「…泣いてへんわ」
少しからかいを含んだ問いかけに、ぶっきらぼうに一言だけ返ってくる。
「聞いたわ、上の学年のぼんくらどもとケンカしはったんやろ」
答えはない。
答えはないが、そのまま続ける。
「目立たはるからな、坊は」
諦めるしかない、こればかりは。
言いたいやつはどこまでいっても言いがかりをつけたがる。
そのたんびにこの、
顔付きと反比例して純真で優しい心が傷つくのは見るに耐えないが、
学校にいるうちは仕方のないことだと、
おそらく本人が一番よくわかっているのだと思う。
とはいえ、ケンカになったのも相手がしつこかったからに違いない。
この人はきちんと我慢も出来る。
―ただ、譲れないものは譲れないだけのプライドはきちんと持っているから。
ぽん、と頭を軽くたたいてやる。
いつもなら手を払いのけられるところだが、今日は黙っている。
こういう姿を見せたがらない人だ。
心配をかけたくないと、強く頼れる背中でありたいと、
いつだってそのためにどんな努力をしてでもしっかりと立っていようとする。
でも坊はこのごろ、少し不安定だ。
志摩が父親から聞いたところだと、和尚様とうまくいっていないようだし。
「坊も辛いと思うわな。和尚様かて、悪気があるんとちゃうんやが」
そう言った、やりきれない表情を思い出す。
いつの間にか、この寺を取り巻く環境が変わっていく。
自分にもわかるほどだから、坊はどれだけそれを感じているのか。
誰よりもこの人は和尚様の背中ばかり追っていたのに、
いつの間にかその目標は姿を隠そうとばかりしていて。
どうしてこの人ばかりこんなに苦労を重ねるんだろう。
ただ、この人は家のことが大事なだけなのに。
「女将さん、心配してはりましたよ」
その手をそのまま撫でる手にする。
女将さんは坊のことを当然大事にしているが、
とはいえ、和尚様のことだって同様に大事なのだ。
だが、坊の気持ちはいかばかりだろう。
理解したい、されたいと思う相手にその気持ちが通じきらない、と
この人は出口も見えずにもがいている。
よその家とはいえ、家族同然の付き合いだ。
坊の置かれている状況を理解できるからこそ歯がゆい思いもある。
和尚様のことをよく思わない人もいるが本当に偉い人なんやで、と、
坊のそばにちゃんとついているようにと普段から口にする自分の父親や兄たちといい、
うちは一家でここの家の心配しとるわ、と少し可笑しく思った。
「落ち着いたら、うちに遊びに来はったら」
頷くのが、頭の動きでわかる。
昔はこんなふうに声をかけなくても我が家のように家に来ていた坊は、
このごろはこうやって誘わないとなかなか足を運んでくれない。
いつでもこちらの扉は開いているというのに。
問題から逃げることを好まないこの人の性格のせいかもしれない。
志摩の家では、この人が自分の家で理解されないことが簡単に理解される。
志摩家は座主血統を守るための祓魔師としての役割を、家として果たそうとしているから。
そこにいることが、勝呂の家から逃げたことにはならないのに、
難儀な性格のこの人は、たぶんそんな負い目を感じるのだろう。
「家に来るて、女将さんに言うておきますね」
「…・…ん」
しばらく黙っていたせいで、少しがさついた声が闇に溶けた。
勝呂は、志摩にだけは、こんな姿を見せる。
それはなぜだろう。
いつからだったろう。
これだけ自立しようと自らを自制し続けるような人が、
自分のような人間に頭を撫でられてもされるがままになっているのは、
幼馴染として気を許しているからなのだろうか。
それとも、坊が隠そうとしている胸のうちを、俺が覗いてしまっているからだろうか。
むしろ後者だったらいいと思う。
自分だけが、勝呂ですら目を背けたい心の中を見ていられるのならば。
どんなに傷ついても、最後に自分の前で弱さをを見せてくれるのなら、
本当に本当に、それだけのために生きていけると、志摩は思う。
ほんならまた後で、とだけ言って、部屋を出て行く。
扉を閉めたあと、深く、深く、息を吐いた。
胸の中にある大きな塊を吐き出すように。
「女将さん、お邪魔しました」
廊下ですれ違った女将さんはいつものごとく忙しそうだ。
「あら、もう帰るん?ご飯食べていけばええのに」
二人並んで歩きながら話す。
「坊、あとで家に遊びに来るそうなんで」
「そう、いつも悪いわねぇ」
「い〜え、こちらこそ坊のこと振り回してすんまへん」
「ええのええの、気持ち紛らわしてあげて。ほんと苦労性なん、誰に似たんやろ」
女将さんは笑って、竜士のことよろしく頼むね、と言った。
心底心配しているのが、その笑顔からわかる。
嫌いになれへんよな、と思う。
和尚様も今はあんな昼行灯な人に見えるが、
志摩にとっても、昔は本当に面白くて優しくて、大好きなおじさんだった。
いっそ嫌いになれるような親なら坊は苦労しなかっただろう。
尊敬できて大事な存在だと思うから、
この家が背負っている目に見えない重苦しいものを
一身に引き受けてしまうんだ。
志摩は旅館の裏口から出た。
息が白い。だんだんと季節は冬に近づいてきている。
振り返ると旅館の明かりは夜のなかにぽつんと明るく灯っている。
制服の胸ポケットに入れていた携帯電話が震えた。
開くと、勝呂からのメールだった。
『今出るわ』
短いその文面を読み、そのまま携帯をしまった。
さっきまでまっくらだった勝呂の部屋に電気がつく。
志摩は少し肩をすくめて、そこばかりながめていた。