ずるいひとの話


その夜は月のない夜で、

忍にとっては格好の夜としかいいようがないほどで。


竹谷も自主練にいそしみ、山から遅くに帰って、

足早に水浴びを終えたその足、

深い深い闇の中、塀を飛び越えて戻ってきた人影と出くわす。

無礼にならないよう、気配を消したが、

その人影はすぐさまこちらを振り向いて、

口元まで覆った襟巻きをそっと下げた。

「…竹谷八左エ門」

その声は。

「っ、食満せんぱいですか?」

頷く。

衣擦れだけが聞こえた。

暗くてよくみえなかったが、頭の中にずっと焼きついている顔は容易に思いだされた。

「悪い、手を貸してくれるか」

短く、かさついた声。

「は、はい」

裸足のまますぐさま庭に駆け下りた。

「足、ですか」

「少しな…せっかく風呂に入ったところだったのに、申し訳ない」

「気にしないでください、医務室に…」

「いや、いい。伊作も明日まで戻れない。風呂まで連れて行ってくれ」

肩を貸すと、少し、濡れた感覚がある。


食満のものか、それとも対峙した相手のものか。







風呂場について、改めてよくよく見ると、

怪我をしているのは足だけではなかった。

深い傷もあったが、ざっと見た感じでは心配するほどのものではないようだ。

「自分で脱げますか?」

「なんとか」

「じゃ、ちょっと俺着替えと薬箱を持ってきますので」


ほんの少しだったが、

食満が自分に甘えているのを感じた。

自分の部屋に駆け足で戻り、寝夜着を2着と、手当てに使う自分用の薬箱を抱え、

風呂場に戻ってみると、食満が半分脱いだような状態で目を閉じていた。

そ、っと服に手を掛ける。

まぶたを重そうに開き、ぼんやりとこちらを見ている。

「どうしたんですか?珍しいじゃないですか」

「ん…」

されるがまま、身を任されて。

いつも変に弱みを見せたりしない、面倒見の良い先輩の思いがけない一面。

「竹谷も着替えないとな」

泥と血が薄い色の生地を染めていた。

そこに手が伸びてくる。

「どちらの血だろうな」

自嘲気味な独り言のように紡がれた言葉は、状況を察して欲しいとあからさまにする。

それがわかるから、なるべく大したことのないように言葉を選んだ。

「さぁ、どちらでも構いませんから、早く洗い流しましょう」








足は、挫いただけのようだった。

これしきで人の肩を借りるなど、特にも食満に限ってはありえないことであり、

ますます、これは本格的に甘えられたのだと竹谷は思った。

湯の中でも、食満は人形のように身体を預けてくる。


どうしてほしいのか、計りかねた。

いつもやさしく頼もしい用具委員長だが、

それが仇となって心が傷ついてしまうとき、

そのよりどころはなぜだか竹谷が選ばれた。

こういうときの先輩は、とても可愛らしい。

いつもは明朗で、男気のある人なのに。

竹谷を試すような言葉ばかりあえて口に出したりして。

らしくないな、という気持ちと、それが嬉しい気持ちと半々になる。


「竹谷、お前はやさしいから」

耳元でささやく。

「俺のようにはなるなよ」

泣きそうな、苦笑いみたいな顔で一言。


今日の実習でなにがあったというのだろう。

5年になって酷な実習が増えたと、竹谷自身も感じているが

それ以上のことがあと1年で自分の身に降りかかるのか。

自分にとってはまだ少しも追いつけていないような気持ちにさえなる食満でも、

こんなふうに心を痛めて帰ってくるようなことが。


「上がりましょうか、傷口を消毒しましょう」

頷くだけで返事に変えた食満に、気付け薬の変わりに触れるだけの口付けをする。

「こんな姿、俺の前だけにしてください」

湯船から引き上げようとしたその腕を掴まれ、ぐいと引っ張られる。

バランスを崩して情けなく湯に沈み込んだ竹谷は、

あの鋭い目つきが鈍く光るのに捕らわれる。


「据え膳だぞ、竹谷」


この人は。


竹谷が向ける好意を、気がつけば受け止め、

気がつけば利用する。

ずるい、と思う。

でも、そんな卑怯なことをするのは、自分にだけだとわかっているからこそ、

竹谷はすぐに陥落してしまうのだ。


「…わかってますよ。でも、まず上がりましょう」








***

身体を拭いてとりあえず寝夜着を羽織らせ座らせた。

薬箱から消毒と当て布を引っ張り出し、

頬に1箇所、腕に3箇所、足に4箇所。

足首には以前伊作に作ってもらった湿布薬を貼り付ける。


ときどき、染みるのか顔をしかめる食満。

手当てが済むと、右手で胸元にちょっかいを出してくる。

それをてきとうにいなしながらてきぱきと手当てを終えた。

保健委員ほどではないが、こういった手当てはそれなりに得意な方である。

「…もし俺が通りかからなかったらどうするつもりだったんすか」

「お前の部屋までいくつもりだった」

「やめてください、5年長屋にあんな血生臭いにおいで入ってこられたらみんな警戒するでしょ」

「そういうな、わざわざ近道してまで行こうとしたんだ」

…道理でおかしなところから出てきたものだ。


少し余裕が出てきたのか、茶化すような喋り方に変わってきた。

こっちのほうが、いつもと同じで好きだ、と竹谷は思う。

食満は竹谷に羽織らせられた寝夜着をしっかり整えて着なおし、

痛めた足をかばいつつバランスを調整しながら立ち上がる。

「さ、行くか」

風呂場を出て曲がった方向が六年長屋の方向であり、


さっきまで裸であんなふうに接していたというのに、いまさら。

そういえば、伊作先輩は戻らないんだったか。





急にどきどきと心臓が跳ね上がってくるのを、感じた。