うわさのひと<2>




五年長屋になんて滅多に用事などないから、久々に入ったように思う。

ときどき、風呂上りの髪を下ろした一学年下の後輩たちが、驚いたような顔で頭を下げて通り過ぎていく。

比較的奥の方に竹谷の部屋はあった。

「邪魔するぞ〜」

障子に手をかけると、慌てたように中から開けられる。

「わざわざご足労かけまして」

申し訳なさそうな顔。

竹谷も寝夜着に着替えて髪を下ろしている。

食満は手にした徳利を差し出す。

「気にするな。これ、差し入れ」

「あ、すげ…ありがとうございます」

持参したのは少し値の張る東国の酒。

伊作が数日前にお使いでいった寺で頂いてきたものを、分けてもらったやつだ。

「さ、やろうぜ」

「はい」





5年の竹谷と飲んでくる、と伊作に話したとき、

伊作は笑い転げてこういった。

「それ、なんの冗談!!?」

「冗談じゃねぇ」

いつまでもひぃひぃ言いながら畳にはいつくばって笑っているので、

足で蹴っ飛ばしてやった。

「もー、なにすんだよ〜」

「こないだもらってきた酒、ちょっと分けてくれ」

「あ、うん、いいよ。どうせここにあっても文次たちに飲まれちゃうだけだし」

酒の無心をすると、ころりと態度を変えて、押入れの中から酒を引っ張り出しながら、

「絶対に気付かれずに行きなよ!文次と仙蔵に知られたら確実に屋根裏に忍ばれるからね」

とちょっと本気で心配してくれた。







竹谷と飲む酒は美味かった。

伊賀崎の飼っている毒虫たちが逃げ出した話、

鉢屋が雷蔵と摩り替わって委員会に出て教師にばれて逃げ出した話など、

竹谷は面白おかしく食満に語って聞かせた。

「それでですね、こんなこともあって…」

次々に出てくる話題に、酒も進む。

ほどよい酩酊感に、ゆるり、と身体も軽くなっていった。

「食満先輩、結構飲みますね」

「ん?んー…まぁ、いつもより飲んでるかもしれん」

「顔、赤いですよ」

「竹谷は変わらないなぁ」

するり、と手を伸ばすとちょうど竹谷の頬に届いたので、

そのまま、ぐ、とつまんでやった。

「私より酒に強いなんて、許せん」

「な、何言ってんですか」

両手でつかんでやろうと体重を前に乗せると、

ぐらり、とバランスを崩した。

「あっ、危なっ!」

そのまま竹谷に倒れこむ。


竹谷は五年の中でも、たぶん身体がしっかり作られているほうだ。

頑丈な鍛え方をしているせいか、

倒れこんだら妙に安心感があってつい目を閉じてしまった。

いい加減、本当に酔いが回っている。

目を閉じれば身体からすぅっと力が抜けていくようだ。

「食満先輩、だめですよ!寝たらだめです」

竹谷の手が肩に触れる。

耳にうるさいのは…なんだろう、これは。


「…先輩」


しばらくすると、少しだけ密やかに呼ぶ声が聞こえて、

耳の裏あたりに竹谷の髪の毛がばさり、と落ちる感触があった。

頭のあたりを包まれているみたいで落ち着くなぁ、などと思った。


「六年長屋まで送りますから」

身体を離されて、支えらる。

「…来ると、からかわれるぞ」

「このままここで寝るわけにもいかないでしょう」

両腕をぐっと捕まれて、言い聞かせるように言われた。

竹谷の手は、大きくてがっしりとしていて、

なんだか後輩だということを忘れそうな気持ちになった。


ふらつく足元で立ち上がって、部屋の外に出ると上弦の月が涼やかに目に飛び込んできた。

風が酒で熱くなった肌を冷やす。

それで少しだけもやがかった頭が鮮明になって、

横に立つ竹谷のことをそ、っと見やった。

月の方を見つめるまなざしは、強いだけでなくてやさしい。


「なぁ、再試験はいつなんだ?」

え?と驚いたような顔でこちらを見る。

「明日、です」

「女に頼んで、ごまかしてもらえ」

竹谷は、意図のつかめないような表情を浮かべる。

「無理して抱く必要なんてないんだ。そうしろよ」

自分は何を言おうとしているんだろう?

勝手に口が動いていく。

「私もな、そうしたんだ」

に、と笑ってみせる。

内緒だぞ、と付け加えて。

竹谷はちょっとだけ戸惑ったように見えた。

それでも、

「それじゃあ、そうします」

と肩をすくめて笑って言った。




どくん、と胸が苦しく感じて、食満は大きく息を吐き出した。

「酔い醒ましながら行くから…また、な」

一言言い切って竹谷から身体を離す。


「あ……はい。足元、気をつけて」


じゃぁと右手を挙げて、ふらつきながら歩きはじめた。

なんだろう、と食満は思う。


竹谷といるときの自分の、あまりの警戒心のなさは。






六年長屋の部屋に戻れば、伊作が行灯の下で眠っていた。

食満の布団も敷いてあった。

おそらく、帰りが遅いのを見越して敷いていてくれたのだろう。

ごそごそともぐりこむと、中は体温よりも幾分も冷たい。

ふいに、竹谷の温度が思い出されて、少しだけたまらない気持ちになった。


―なんだろうな。


口元だけでそう呟く。

横を向いて、伊作が少しまるまったようにして眠っているのを見た。

少しだけ起こしてやりたい衝動に駆られたけれど、

何も考えないようにと背中を向け、目を閉じた。