閨房術の試験で、最高得点を取ったにもかかわらず再試験を受けさせられた奴がいる、
という噂が六年は組の教室でもささやかれていた。
伊作が隣で、肩を震わせて笑っている。
「もう二度と出ないかと思っていたのにね」
「うるせぇ」
食満は一蹴し、外を見た。
今日は五年生全組が合同演習中で、ところどころで刃をぶつけている。
「…どいつだろうな」
窓から外を眺めながらぐるっと見回してみた。
よく見る顔もあれば、あまりかかわったこともない奴もいる。
「さぁ…仙蔵に聞いてみたら?耳聡いから知ってるかも」
「はは、確かに」
伊作と食満は、仙蔵がしたり顔で語りだすのを2人で想像し、小さく笑った。
授業が終わって、夕食までの時間。
いっきに長屋はにぎやかになる。
騒がしい中を食満と伊作はい組の長屋に向かう。
「入るよー」
伊作が戸を開けるとそこには、にやにやとしているい組の二人組と、小平太。
その奥ではちらり、と本から視線をこちらに向けただけの長次が座っている。
「おぉ、お前二号が出たらしいな」
「…うるせぇよ」
文次郎のいやみな口調に、食満はむっとしながらごちた。
「で、いったい誰なんだい?」
伊作は興味津々で身を乗り出すように仙蔵に問いかける。
ふん、と得意げににやりと笑って、口を開く姿は、
想像したとおりで知らず笑いがこみ上げそうになった。
「私は直接話したことはないが…竹谷八左ヱ門という奴だそうだ」
「竹谷っ!?」
食満が驚いて声を上げると、仙蔵は眉を軽く上げた。
「食満、知ってるのか」
「あー…ほら、あれだ、生物委員会の」
「知らないな〜」
小平太が言う。
委員会柄、しょっちゅう虫かごの修理を頼まれるので何度か話したことはある。
親しい、というほどではないが、かかわりは多い方の人間だ。
「食満のときは笑ったな」
顔もわからない五年生の話題に飽きたのか、仙蔵は食満の話題に話を戻してきた。
「あぁ、ほんとだな」
そうは言いながら、文次郎は少し悔しそうにも見える。
「私は逆に尊敬しちゃったけど」
伊作は目をきらきらとさせてとびきりの笑顔を向ける。
「…俺もだ、食満は…立派だ」
全員がばっと後ろを向けば、
ぼそりと呟いた長次は、そんな8つの視線を意にも介さず何事もなかったかのように本に集中していた。
閨房術の試験は、廓で行われる。
そこの女郎から、決められた内容を聞き出すというものである。
最高得点で再試験、ということはつまり、
女郎を抱かずにに情報を聞き出した、ということを意味する。
五年の夏休み前に行われるこの実習を、そういう意味で楽しみにしている輩も多い中、
抱くことをしない、というのは非常に奇特な行動といえる。
一年前、食満は、別段何をするでもなく、女郎の話に耳を傾けていただけだったのだが、
いつの間にやら泣き出して、情報をぽつりとこぼしたのだった。
身体を使わないということはつまりリスクなくして情報を得たということで、
教師からの評価は非常に高かったのだが、
一方で女の経験を積め、ということも目的にある課外実習でもあるため
再試験を受けさせられることになったのだった。
この事の顛末はいつのまにか学年中の話題となっていて、
さんざんい組の2人組にはバカにされ、
小平太にはもったいないといわれ、
伊作は、よくわかんないけど、留はすごいなあなんてぼんやりしたことを言いやがったのだった。
そして、それから数日後の夕方。
用具委員会が終わったあと、一人残って帳簿をつけていると背後に人の気配がたった。
「失礼します」
振り返るとそこには、壊れた虫かごを持った5年の生物委員の姿。
「また修理か」
「はい…すいません、いつもいつも」
壊れた虫かごを慣れた手つきで受け取って、戸棚から修理セットを取り出した。
今回はただ蔓が緩んで倒壊しただけのようで、
代わりの蔓で竹を結びなおすことにする。
静かな室内に、乾いた竹のぶつかる音だけが響く。
ちらり、と竹谷を見れば、穏やかな顔で庭のほうをそっと眺めている。
ふいに、先日の噂を思い出した。
聞きたいことがいくつか頭をめぐったが、
結局なんだか躊躇われて、食満は修理に没頭した。
「食満先輩」
ふいに竹谷が口を開いた。
「あ?」
「あの、聞きたいことがあったんですが」
上目遣いで覗き込むようにおそるおそる尋ねられる。
「あぁ、なんでも聞けよ」
ごく、と喉が動くのを見た。
聞かずとも話したいことはわかったけれど、
別にこちらから振りたい話題でもないので、言葉を待った。
「去年、女郎に指一本触れずに試験をクリアしたって、本当ですかっ」
言いながらよっぽど恥ずかしかったのか、
あ〜、とかう〜とか唸っていた。
「そんな立派なもんじゃないぞ?話聞いてたら、勝手に女が喋っただけで」
「そ、そうですか」
竹谷はそう言ったきり畳のほうを見つめたまま黙ってしまった。
間がもたなくなった食満は、小さくため息をついてから言う。
「聞いたぞ、お前もだったんだろ?」
ばっ、と顔が上がる。
「なんか…噂ばっかり立ってしまって。恥ずかしいっすね」
苦笑い。
確かに、こういう噂は嫌なもんだろう。
「気にすることはないさ。で、やっぱり再試験か?」
「そうみたいです。実は、あんまりあぁいうの…苦手、なんですが」
「奇遇だな、私もだ」
竹谷は食満の言葉に、安心したような嬉しそうな顔で笑った。
つられて食満も笑う。
「居心地がいいですね、食満先輩といると。つい口を割った女郎の気持ちもわかります」
屈託のない顔で竹谷が話すのを見て、あぁ、と思う。
受け答えのタイミング、そして口調。
朴訥そうな顔をして、その実、何があっても受け止めるような明朗な笑顔。
小平太の笑顔とも種類が違う、すべてわかっていると言わんばかりの、無限の笑顔だ。
―居心地がいい、とはこっちの台詞だな。
そんな思いが頭を過ぎった。
手元では虫かごの修理が完了しようとしている。
なんの虫が入ってたのかとか、そんなどうでもいいことを考えながら仕上げに入れば、
思いがけない言葉を竹谷は口にした。
「あの、もしよければなんですが…今晩、飲みませんか?」
杯を傾けるようなしぐさ。
「おぉ、いいぞ」
「それなら、あとでお邪魔しますね」
わかった、と言いかけて思いとどまる。
「い、いや…今六年長屋にくるといい鴨にされかねないから、私が行くよ」
にやにやと部屋に上がりこんでくるい組の2人が目に浮かび、慌ててそう言った。