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                       たいおん


手を握り締めて、

ふいに温度を思い出して、

ぐっと切なくなって空を見上げた。


「どうした?」

「いや」

鉢屋は、そうか、と言ってそれから何も言わず、

竹谷は一人、かすかにその温度の持ち主のことを頭に思い描いた。








思ったより危険な忍務なのだということは、

野村先生がほんの一瞬、心配そうな顔をしたのがわかったときに理解した。

組むのが鉢屋と、というところでそれは確信に変わった。


もしかしたらもう二度と戻れないこともあるかもしれない、

と思った瞬間、

会っておかなければならないと思った顔がいくつか浮かんだ。

同級生、委員会の後輩たち。

そしてなるべく考えないようにして、

一番最後に思い浮かべたのは、用具委員長の食満であった。

会うか会わないか、散々悩んで、

夕日も沈むか沈まないかの刻に用具委員の部屋へと向かった。


会ってしまえば決心が鈍るかもしれない、と思った。

会ってしまえば、怖い、と思ってしまうかもしれない、と思った。

逆に、会ってしまえば生き延びる勇気になるかもしれないとも思って、

その狭間に心を囚われた。

足が重い。

何度か引き返そうと思って、何度か進もうと思って、

とりあえずどうしようもなくなったころに着いた部屋の前。

そこでもまだ悩んだ。

これでは雷蔵のことを笑えないな、と妙に茶化したような言葉が頭を過ぎり、

戸に手をかけた時、奥から声がした。

「…その気配は、竹谷だな。入れよ」

いつもの調子のその声を聞いて、こみ上げてくるものがあった。

それは少し嗚咽に似ている感覚。

奥歯をかみ締めてやり過ごす。

「こんな時間にどうした?虫かごの修理なら明日にしろよ」

帳簿に向かってなにか書き物をしている食満の、

肩越しに横顔の見えるところに腰を下ろす。

比較的、表情の変わるたちでもないこの人の、

取り繕いのない笑顔を簡単に見られるというのが、

自分の立ち位置の特等席だな、と思う。

「虫かごは今日はありませんよ」

ちらり、と視線がこちらを向いた。

どのような感覚も、一部たりとも気取られないよう、

身構えていることすらも隠すように、いつもと変わらないように笑う。

「それなら、別の用事ってことか」

かたん、と筆を置く乾いた音が鳴った。

背を向けていた食満がこちらに向き直って、

竹谷は息を飲む。

「そんな厳しい目、似合わんぞ」

「…え?」

手が触れる。

左眼の下あたりに。

す、っとなでる様に指を動き、ぽん、と頭に手を載せられた。


「あらかた、わかる。わかるから皆まで言うな」


ん、とつぐんだ口を、ぼんやりと眺めて、

そっと視線を合わせてみれば、ふ、とその口がやさしく緩む。

わしゃわしゃと頭の上をなでまわし、手が離れていった。

「少し、不安です」

なぜだかするっと素直に今の気持ちを言葉にしていた。

忍務の話を受けたときも、そのあと友人たちに会ったときも、

そんなこと、絶対に言うわけにはいかないと強く思っていた。

「まぁ、そうだろう」

食満は、至極当然のように言う。

こんな言葉に、なんのこだわりもなくそういう返事をする者は、

きっとここでは極少数だろう。

「だけど、たぶん大丈夫だと思います」

「あぁ、私もそう思っている」

「…心配してください」

「してるから、言ってる」


竹谷は、なけなしの勇気を持ち出して、食満の手を握ってみる。

手の温度は竹谷のほうが高いようで、

自分の熱が溶け出して食満に流れ込んでいくような気がした。

ほのかな体温。

「今日は、手を握るだけにします」

食満はなにも言わずにただ、竹谷を静観している。

「願掛けです」

ぐ、と少しだけ力をこめて、ゆっくりと離した。

表情を変えずに、その手をじっと眺める食満は、

「手が温かくなったな」

とぽつりとひとこと言って、手の甲をさりげなく頬に押し当てた。




翌朝、日も昇らぬうちに濃い霧の立ち込める中、鉢屋と学園を出た。

一週間後、二の腕と肩口に一つずつの太刀痕と数箇所の打撲と火傷を残し、

予定よりも少し手間取ったが、忍務を終えた。


「案外命って簡単にはなくならんもんだな」


鉢屋が呟くように言った一言で、

あぁ、自分は帰れるんだと漠然と思った。





学園について、報告を終えて、湯を使い。

いつもどおりに、いつもと変わらずに一日を終えた後、

用具委員会の部屋へと足を運ぶ。

戸に手を掛けると、反対側から開けられた。

すでに陽は沈んでおり、部屋の中はうっすらと明かりだけが灯っている。

「食満せんぱ…」

名前を呼び終わる前に引きずり込まれるように中に雪崩れ込んだ。

「あ、あの」

「出掛けにお前の温度を受け取ったから、戻ってきたら返そうと思っていた」

に、っといたずらっぽい顔をしてそんなことを言い放ち、

多少乱暴な手が肩を床に押しとどめた。

何か言い返そうとした竹谷の口は温かい温度に飲み込まれる。

フラッシュバックした一週間前の体温と、

今この身に受けた体温に頭の中が混乱したけれど、

背中に手を回した瞬間に、

今自分は生きてこの人を腕に抱いているのだと思った途端、

なにか堰で閉じ込んでいたものがあふれ出すのを感じた。

「謝ってもいいですか」

「なにを?」

「押さえが利くような気が全然しないので」

竹谷の口調が妙に真面目くさったような言い方だったのに、

食満は笑って答える。

「竹谷らしいじゃないか」

お互い笑い合うようにじゃれあったまま、

竹谷は組み敷かれた体勢から入れ替わり喰らいつくように覆いかぶさった。



いろいろなことがあまりに心地よく、

ただ純粋に、

生きていて良かった、と竹谷は思った。