間違った欲求




伊作が夜中、こっそりと部屋に戻ってきた。

新月の晩だったので、目をよくよく凝らさなければ、

その姿かたちをすぐには捕らえられないような暗闇。

木箱を開け閉めする音が、

可能な限りの密やかさで部屋に小さく乾いて響いている。


「伊作」


声を掛けると肩を大きく震わせて、

おそるおそるこちらを伺った。

「ごめん、起こしてしまった」

少し暗闇に慣れた目に、伊作の目と、包帯の白だけが飛び込む。

「怪我でもしたのか」

「ちょっと、ね」

ごまかすような言い方で、笑ったのが見えた。

「……」

言いかけてやめた。

「手伝うか?せめて灯りくらいつけてやれよ」

代わりに、なるべく気を遣わせないようにそれだけ告げる。

「ありがとう、留」

手際よく、口に包帯を銜えながら手首に巻いていく。




一月に一度や二度、こういうことがある。

原因はわかっている。

はじめの数回は、食い下がって尋ねたものだ。

最終的に、ものすごく言いにくそうに、

「もんじとね、ちょっと」

そう答えて視線をそらして、

「心配しなくて大丈夫。まだ、お互い距離感が掴めてなくて」

きっぱりと言ったのだった。



伊作と潮江は、それなりにうまくいっているようだった。

それだけに、最初は困惑したのだったが。

それからしばらくして、立花と飲み交わす機会があったときに、

それとなく、この出来事について相談した。

潮江と同部屋の立花であれば、何かもっとわかっているのかもしれないと思ったからだ。


「あぁいうのは痴話げんかってやつだ。最初はそういうものだろう」


立花は、わりとなんでもないようにそう言い切った。


「他人と深く交わるというのは、そういうものだと私は思うけれどね。

 よりにもよってそれが石頭の潮江とぼんやりの伊作だから、

 余計にそれが激しいんだろう…今のところは見守ることにしている」


言葉の真意がわからず、少し疑念に頭を悩ませていると、

「子供と同じで、ぶつかっているうちに加減がわかるものさ」

どこか笑みを浮かべるように、そんなたとえを出す。


そのとき、本当はよくわかっていなかったのだが。


それから少しして、自分にも好いた惚れたと思う相手ができてから、

ようやくその言葉の意味も理解できなくもないと思えるようになってきた。

推察するに、伊作と潮江は、しょっちゅう気持ちがすれ違っているようなのだ。

それも、間違った方向にすれ違ってばかり。

不運付いている伊作だから、幸せであることに慣れていないのか。

自分に責を課すことが癖になっている阿呆な潮江だから、

他人に気を許すということができないのか。


そのあたりの立ち入った事情ははよくわからないが、

口を切ったり、畳で擦ったような擦り傷を作ったり、

掴まれてできたのか、手首を真っ黒に染める痣を包帯で隠したりしている伊作を、

「困ったらいつでも話せよ」

なんて、そんなふうに迎え入れてやることくらいしかできない立ち位置にいた。








「…なぁ、竹谷。どう思う?」

今日も今日とて、用具委員会の部屋で二人。

伊作のことについて、なんとなく竹谷に話をしてみた。

ときどき怪我をするような痴話げんか、

それでも付かず離れず、伊作は潮江の元へ行く。

そのことの顛末を、できる限り主観を除いて話してみる。

竹谷は、そうですか、どうでしょうねぇ、と当たり障りのない相槌で、言葉を探しているようにも見えた。

しばらくして、ぽつんと一言。

「伊作先輩も潮江先輩も、それでも離れられないというのなら、

 それも一つのかたちだったりするんでしょうか。

 …あんまり続くようなら、やっぱり心配ですけど」

それはいけない、大変だ、助けてあげなくちゃいけません、

そんな反応を、どこかで勝手に予想していたのに。

ずいぶんと、冷静な答えが返ってきて、内心動揺した。

「お前はそういう気持ちになることは、ない…か?」

別に深い意味があったわけではなかったが、

その動揺がそんな言葉を口にさせていた。

「え?食満先輩に手荒な気持ちになること、ですか……?」

思案顔をぶしつけにならない程度に眺めながら、

言葉にしてからふいに頭を過ぎった、おかしな感情。


手荒に扱われる自分。それを想像していた。

伊作が潮江にされているように。



そんな目に遭ってみたい、という願望が、自分の中にあることを知った。




実際そうなったら困惑することは理解している。

下手に自分に執着されてはお互いのためにも良くないと考えているし、

竹谷はよくも悪くも、恋や愛など頓着しない性格だ。

だからといって竹谷の気持ちを疑うだとか、

こちらの気持ちが通じていないとか、そういったことを思うような思考も、

自分は持ち合わせていない。


つまり、とても安定している関係性。


竹谷も、自分も、わりと精神年齢は高いのかもしれない。

嫉妬や疑念など、そういった感情でやきもきしないですむのはいいことだと思っている。

そもそも、竹谷の気持ちが他の人間に移ること、というのが想像できない。

それは竹谷も同じだろうと、思う。


でも、憧れないわけではない。

嫉妬、憎しみ、ねたみ、寂しさ、もどかしさ、やりきれなさ。

不安定なその、アンバランスなところに。

ひどく惹かれる気持ち。

過度に想い過ぎてしまった暁に、それが諸刃となることに。







「…少し違うかもしれませんが、困った顔をされると少しどきっとします」


目を細めて、笑いながら竹谷は言った。

その手が、手首を掴む。

「ほら、驚いて困った顔をしているじゃないですか」

手首を畳に固定されたまま、もう片方の手が胸の辺りを掴む。

「また、困った顔」

心中を見透かされているようで、無意識に顔を背けていた。

「俺には、何もされないと思っているでしょう?

 だから、こういうことをされるととても困った顔をするんです」

どくん、と心臓が脈打つのが、

固定された手首の動脈が、どくどくと蠢いているのが、

嫌になるくらいぞわぞわと駆け上ってくる。


胸にあった手が袷に掛かる。

掴まれた手首が持ち上げられて、

早い速度で皮膚の下でざわめいているその付け根あたりにやわらかく口付けられた。

「これ以上はなにもしません」

竹谷は、そうささやく。

下手なごまかしや嘘をつく人間ではないから、本当に何もする気はないのだろう。

「…手…離、し…」

いつの間に覚えたのだろう。

体は、どういうことにどんなふうに昂ぶらせればいいのかを知っている。

考える力がじわじわと失われていく。

「食満先輩は、どうして俺がこうやって触れるのか、なぜこれ以上のことは今しないか、

 ちゃんとわかっているでしょう?」

くすぐったいような口付けを、皮膚の薄いところに繰り返しながら、

竹谷がそんなことを言う。

声は耳に入るのに、体の中にどろどろと熱がこみ上げてくるせいで、

言葉がよくわからない。

「俺も、食満先輩はここではここまでしかされたくないことがわかっているから、

 だから大丈夫なんです」


はい、と。

さっきまでのゆるゆるとした触れ方ではなく、強く抱きしめて、ぽん、と背中を叩かれる。

一瞬にして我に返って、恥ずかしさでそのまま竹谷の身体に身を任せた。

身体に渦巻いた熱を吐き出すようなため息を、一つ。


「物足りないですか?」

背中を撫でさすりながら、竹谷に尋ねられる。

「いや」

本当に充分だ、と思った。



『距離感』とは、そういうことなのか、と。

少しずつ回復してきた頭で、考えた。

近づきたい、今は一人でいたい、そういった気持ちの動きにお互いにどう寄り添えるか。

運よく、自分と竹谷はそれが最初の方から掴めていたのだろう。

だから、こんなふうに安定した時間を簡単に手に入れているのか、と。


「食満先輩だからですよ」

「え?」

「食満先輩がそういう人だから、俺はこのままでいさせてもらってるんです」


恥ずかしげもなくそんなことを言う竹谷の額を、

ぺちんと指先で叩く。


いたたた、と苦笑しながらこちらを見て微笑む顔に、

なんだかとても心が満たされるのを感じた。
「私も、お前じゃなかったらこうはいかなかった…かなぁ」

「食満先輩は、伊作先輩たちとはタイプが違うから、きっとそうはならないですよ」

「…どういう意味だ」



「先輩は情は深いけど情には溺れないでしょう?」





本当になんの気負いもなくそんなことを言う。

…こいつ、もう少し器用だったらかなりの女泣かせだったかもしれない。




それから少しして、伊作が怪我をして帰ってくることもなくなった。

たまに大きな声で言い争っている声がすることもあるが、

それでも、部屋に帰ってくるときはなんだか嬉しそうにして帰ってくることもある。


仲良く二人ならんで歩いている後姿を眺めていると、

「ほら、言っただろう」

いつの間にか隣にいた立花が得意げに言う。

「そういうもんなんだな、私にはわからんが」

そう呟くと、ほう、と眉を上げてまじまじとこちらを見た。

「…お前の口からのろけを聞くとはな」

「なっ!!?」

「よっぽどいいのを捕まえたとみえる」

「はぁっ!!!?」

言うだけ言うとスタスタと立花は行ってしまった。



「なんなんだよ…」

一人立ち尽くして、呟いた。

立花の前で下手なことはいうものではなかった。

こうやって変に勘ぐられて言いふらされてはたまったものではない。


しかし、はたと気付く。

恋や愛がそういうものだと、わからないほど幸せなのだと。



意図せずして立花のせいで思い知った食満は、

一人赤くなった顔を隠すように、口元に手を当てた。