言葉にできないその心



放課後、教師から頼まれたおつかいから戻ってきた。

小松田さんと一言三言交わして門をくぐり、

一旦部屋に戻って着替えてこようかと思いながら歩いていると、

学園の片隅に人陰を見つけた。

よくよく知っている姿だったから、つい覗き込む。

一人だったら声を掛けておこうか、などと思ったりもして。

だが、覗き込んでみればそこにいたのは一人ではなく、

もう一人、背丈の少し低い姿があった。

竹谷の横にいたのは、うつむき加減の伊賀崎孫兵。



死角に入って、なんとなく見ていた。

一番自分に近い他人が、自分以外といる姿を見るときの、

なんとも言い表しがたい感情に、

名前をつけるとしたらばどんな名なのだろう。

嫉妬でもない、かといって、落ち着いていられるようなものでもない。

ただ、そわそわとする。

でも、なぜか興味を惹かれてしまう。

だからきっと、こんなにここを去れずにいるんだと思う。



竹谷は、孫兵の肩に手を添えて、

じっとななめ下を見ている。

その視線の先に、棒切れのようなものが立っている。

そういえばいつか竹谷から聞いた。

孫兵は自分の飼っていた虫が死ぬと、いつも墓を作るとか言っていた。

生き物を大切にするのは大事なことだけれど、

こんなに悲しまれると困ってしまう、と。


竹谷は、孫兵の頭を軽く叩いて、励ましているように見える。

竹谷が優しいことを、自分はよく知っている。

でも、自分はあいつよりも年上だから、

あんなふうには、しないだろう。

先輩として、とても優しく接しているだけだ。

ただそれだけのことだ。

でも、それを決して心穏やかに見ていられない自分がいる。

少なくとも、自分はあいつとそれなりの仲で。

そしてあいつは少なくとも俺を必ず好きでいるという、

なんの根拠もなくても信用に足るほどのものを、この身に受けているはずなのに。


あんなふうに頼もしい掌を、

こうやって外側から眺めることがこんなに胸を締め付けるなど。

あまりにも愚かで、無様じゃないか。


孫兵は目元を拭っている。

泣いているのか。

竹谷はただ、委員会の先輩だからあんな風にするだけ。

二心なんて疑ってはいない、それだけは確か。

漠然と、孫兵を羨んだ。

例えば今見た出来事を話したとして、

例えば今思った気持ちを素直に話したとして、

竹谷は、何もやましいことはないと言うだけだろう。


ただ、気が付いたのは、ただ一つ。

竹谷に愛されているということに、一番依存しているのは自分だということだ。




影が長くなり、闇に溶け込む前に

食満はそこを去った。

まだ、二人はそこにいた。






夕食の後、食堂を出たところで、竹谷と会った。

「あ、もう食べ終わってしまったんですね」

いつもと変わらない顔で言われる。

それなのに、なんとなくそっけない返事をしてしまった。

少しだけ不思議そうな顔をして、

「あとから行きます」と言う。

「いや、そんなに無理して来なくてもいいんだぞ」

そう言いながら、こんなの、自分を気にかけてくれと言っているのと

変わりないじゃないかと思っていた。

「…?俺、何かしまし…」

自分が恥ずかしくなった。

竹谷の言葉を全部聞く前に、なんとなく急ぎ足で歩き出していた。

背中に、その視線を感じていた。

でも、それはただの期待感かもしれなかった。

こういうときに、困惑した目でこっちをじっと見つめる竹谷を、

勝手に期待している。

そして、その期待はたぶん裏切られないと、勝手に確信している。



夜になり、もう毎日のように来ているくせに、

どこか申し訳なさそうな顔で六年長屋に足を運んだ竹谷がやってくる。

「こんばんは」

ふすまが開いて、その顔を見て、

さっきからずっと自分の態度に反省していた食満は、

精一杯いつもどおりに振舞おうと考えていた。

「…さっきは、悪かったな。別に他意があったわけじゃなかったんだ」

口元に笑みを浮かべるよう、細心の注意を払って、

竹谷が来たら一番最初に言おうと思っていた言葉を発した。

「何かありましたか」

それでも、竹谷は単刀直入に聞いてくる。

そして距離を縮めてくる。

期待していなかったわけじゃない自分に、その瞬間気が付いた。

こんなふうに、多分されたかった。

「何があったか知りませんが、言われなかったらわからないから、言ってください」

そうだ、もう一声欲しい。

貪欲に、言葉を求めていた。

そういう自分を、とてつもなく浅はかだと思いながら。

表情には困惑した顔を。

いつからこんなふうに、計算高く接してしまうようになったんだろう。

全部、全部、期待通りにお前がいろんなものを与えてくれるせいだ。

「ねぇ、気が付かないうちに先輩を傷つけるようなことをしたくないんです」


あぁ、そうだ、こんなふうに、

お前を一喜一憂させるのは自分だけがいい。

ただの後輩には、こんな気持ちにはならないだろう?

そう確信させて欲しい。

とてもわがままな気持ち。

お互いに、深く干渉し過ぎない大人な関係を気取っていても、

結局のところはこんなにも執着していて、

その安定が崩れそうなことがあれば、こんなにも弱気になる。


もう少し黙っていれば抱きしめてくれるだろうか。

おずおずと、申し訳なさそうにその手を、

大きな厚ぼったいその手を差し出して、

最近ようやく不自然じゃなくできるようになったその抱きしめ方で、

なにもかもをもごまかして、

こんな堂々巡りのどうにもならない漠然とした感情を踏みつけていくように

お前の感情で全部押し流してくれるだろうか。



頭の中で、何度も何度も、小さな頭を撫でた竹谷を思い出している。




そう、ただ、ただ。

その腕が自分を求めてくれたなら、あっという間に忘れられる出来事なのだが。