雲の切れ間に


翌日の竹谷は、授業そっちのけで手はずを何度も繰り返した。

ときどきバイトで他所の館へ忍び込む忍務にかかることもある。

しかし、これほど綿密に手順を立てたのは初めてのことだった。

なにより、一癖もふた癖もある人物の多いあの場所で気配を探られないというのはまず無理。

そこで、立てた計画は、かく乱作戦だった。


あたりが真っ暗になる少し前、

竹谷は飼育小屋で飼っている子猿を懐に、一匹連れ出していた。

六年長屋の天井まで忍んで、おとなしく胸に収まっていた猿を抱えて顔を覗き込む。

「頼んだぞ」

ぱ、っと手を離せばたかたかと歩きだす。

これだけ隠し立てもなく違和感を振りまけば、注意もそれるに違いない。

あとは一部の隙もなく、迷いなく、食満先輩の部屋の上まで踏み込むだけでいい。

猿が歩く。

いくつもある部屋の話し声が一瞬パタッと止まるのが恐ろしかった。

しかし、すぐに怪しいものではないと確認すると、またざわめきだす。

さすが最上学年。

ざわめきにあわせて竹谷は足を早めた。

しかし、そこにあったひとつの誤算。

「私、捕まえに行く!」

という大きな声が下から聞こえた。

…七松先輩だ。

「長次、どちらが先に捕まえるか競争しよう!」


竹谷は服のしたに汗がじんわりとにじむのを感じた。

この学年の「好奇心」という獣をまったく想定に入れていなかったという最大の抜かり。

見つかるのも時間の問題だろう。

もはや万事窮す、と腹をくくった瞬間だった。


「猿を下に落としてやれ」


耳元に聞こえた声に、とっさに反応する。

頭の中で手詰まりだった駒が一気に動き出すのが見えた。

猿が落ちる、猿が七松先輩をひきつける。

やいややいやと一気に賑やかしくなった長屋は完全に手透きとなって

あとはらくらくと部屋に忍び込むことができた。


後ろから、人影が降りてくる。

「…ありがとうございました」

開口一番はそれで、情けなくて恥ずかしい思いをした。

食満が竹谷の前に回りこみながら言う。

「おしかったなぁ、あともう少しだった。

 変な手出しをしてしまったのは、ゆるせ。見つからせるわけにも行かないからな」

あんまり嬉しそうに言うので、竹谷は知らず顔が赤くなってしまった。

おそるおそる、口を開く。

「昨日のことは、本当のことだったでしょうか」

「本当のこと?」

「なんていうか、夢か現実かわからなくなってしまいました…」

竹谷は下を向いて、畳の継ぎ目を見つめた。

なにもかもがリアリティがない。

全部一夜の夢でした、と言われたらあぁそうかとすぐに納得できそうなほど。

ぎゅ。左の頬に鈍い痛み。

乾いた指先につねられる。

…頬をつねられるのは、これで二回目だ。

「私にはしっかり竹谷の温度が伝わっているから、

 少なくとも私にとってはこれは夢ではないようだが?」

「ぁ…はい、夢じゃない気がしてきました」

なんでこんなにいちいち人を夢見心地にするんだろうか。

「そうだ。頑張ったから褒美をやろう、なにがいい?」

ずぃ、と胡坐のまま間合いを詰められた。

ただそれだけのことに、心がめいいっぱい動揺させられてしまう。

耳に響いた畳と袴のすれあう音に、目を閉じて息を吐く。

「食満先輩はどこまで本気でしょうか」

「…?」

「からかっているのなら、早く言ってください」

「どうして?」

「やっぱり、考えれば考えるほど…俺にとって都合が良すぎることばかりだからっ!」

心の悲鳴を吐き出すような勢いで、一気にまくし立てると、

両肩に重みがかかった。

「そういうことも世の中にはある!」

鼻先ですごまれて、口を吸われた。

ゆっくり、他人の温度が染み渡ってくる。


どうしたらいいんだろう、なにを認めればいいんだろう。

なにを信じればいいんだろう、






……………あぁ、でもどうでもいいや。




かなり長い時間だったように思う。

唇が離れて、細い指がそっとぬぐっていく。

ようやく今になって心臓ばかりが急いて激しく動揺し、

筋肉がばかになったような腕を持ち上げて食満の口にも触れてみた。

びく、という食満の体の緊張に、慌てて指を引き戻そうとしたが、

逆に指先を噛まれて引き戻せなくなった。

そのうっすらとした痛みに、もう歯止めが利く気がしなかった。

「すみません、もう、ずっと食満先輩が好きでした」

強く強く目を瞑って、積年の思いを吐露する。

「でした?」

口に指を含んだまま、もごもごと喋る食満に慌てて言い直す。

「好き、です」

ぎ、っと噛まれた衝撃で体がびくっとする。

「あの、お、俺からしても、いいですか」

「ん」


自分から顔を寄せるのは想像以上の緊張感だった。

ようやくわかる。

他人と距離を詰める、他人の懐に飛び込む、そういうことの難しさ。

そんなことを何度かしてもらったっていうのに、

自分は、自信がないってだけのことでぐだぐだと言っていたのか。



まだどうにも緊張してしまって、

やっぱり嘘だったらどうしようとか夢だったらどうしようとか、

性懲りもなく思っていたりする。

食満の背中に腕を回した。

それしかできない、でもできることはすべてしたい、と思った。


「もう少ししたら伊作先輩たち、帰ってきますかね?」

猿を追って遊ぶのも、そんなに長い時間夢中になったりはしないだろう。

「そうかもしれん」

「じゃあ、あともう少しだけ」

「竹谷」

「はい」

「お前ともっと話したいことがある」

「ええ、なんでも」

「こんな時間じゃ足りないから、だからまた忍んでこい」

「毎回命がけは困ります」

そう言うと食満は笑った。


「本当に、お前がそんな奴で、良かった」


満足げな表情を浮かべた、ただ闇雲に愛しい先輩。


「また、明日。絶対に逢いに来ます」


身体を離して、差し出した小指。

そこに食満の小指が絡む。




今まで抱えていたたくさんの不安も陰りも、あっという間に晴れていくのを、感じた。

なんだか、もともとそういうものだったような気がして。



二人、顔を見合わせて笑った。