満月<2>





耳がつめたくて熱い。

本当に現実のことだったろうか。

都合のいい夢を見たんじゃないか、と何度も何度も考える。

100歩譲って現実だとしても、勝手に都合がいいように解釈しているだけかもしれない。

それなのに、頭の中ではどうやって明日忍び込むか、

忍び込んでどんな顔をすればいいか、

もしこれが自分の勝手な勘違いだったときの対応とか、

思いつく限りの可能性を全部シュミレーションしていて、

なんて自分は意気地がないんだろう、と思った。


山のてっぺんからどうやって帰ってきたかわからない。

ずーっとずーっと同じことをいろんなように考えながら、

気がついたら長屋までたどり着いていた。

われに返ったらますます情けなくて、ためいきをつきそうになったその瞬間、

突然声を掛けられた。

「おぉ、八左エ門、遅かったな」

へら、っと笑った顔に、少し毒気があるのを見て、とりあえず止まりかけたため息を吐いた。

「…三郎か…」

自分と向き合うだけの日々の終わりに、気が緩んだとしか思えない。

そのまま相手の袖を掴んで部屋に引きずりいれた。

「ちょ、なんだなんだ!?」

慌てふためいた抗議の声に耳も貸せない。

とっさにこいつが適任だと思ったら、いてもたってもいられなかったのだ。

「聞いてくれ、三郎っ」

肩をがっしりと掴んでがくがくと揺さぶっているところに障子が開く。

「…な、なにっ、三郎がなにかしたの!?」

一瞬どうしたことかと驚いたまんまるな目が、次の瞬間には三郎をぎっとにらみつける。

「俺はなんにもしてねぇ!」

助けを呼ぶように三郎は雷蔵に手を伸ばした。






「あほか、喜べ」


さっきあったすべてのことと、自分の混乱具合をなんとかかんとか伝えてみれば、

頭ごなしに三郎は竹谷を馬鹿にした。

「念願かなったなら棚からぼたもちじゃねぇかよ」

けっ、と馬鹿にするように言われてむかっとしたが、すかさず

「まぁまぁそうは言っても八左エ門だって不安なんだろうし…」

そんなフォローが入る。

雷蔵がいてくれて助かった、と本気で竹谷は思った。

でも、鉢屋が言うのはもっともだ。

他のことなら単純明快、すんなりそうすることもできようが、

今回の件についてはそうもいきそうにない。

雷蔵が言う。

「八左エ門はやさしいから、相手や周りのことを考えてしまうんじゃないの?」

穏やかな笑顔で労わるような雷蔵の言葉に少しだけ泣きそうになった。

「違う違う、そんな綺麗なことじゃないんだ。俺はただ自分が傷つくのが怖くて…」

がっくりと頭を落として口にした言葉が、なによりも自分の真実に近いと思った。

食満が好きだと一人思っていた頃は、それだけで満足だったのだ。

誰にも踏み込まれない安らかな場所が心の中にあるだけで。

それを食満に見せてしまって、そして食満が自分のことを思ってくれていると知って。

もはや、一人でただ嬉しさも苦しさも片付けられなくなっていくことが、

ただ単純に怖い。

「俺は…情けない…」

呟くと、雷蔵は思いがけない強さで肩を掴んだ。

あまりのことに、その手は雷蔵じゃなく三郎の方かと思った。

「ふぅん、なんだ。自覚があるのならいいじゃない。たとえ何があっても僕らはお前を嫌ったりしないんだ。

 失恋のひとつや二つ経験して初めて一人前っていう考え方もあるんじゃないの!?」

はっぱをかけるようなとても男らしい雷蔵の言葉。

「おい、失恋前提かよ」

そこに呆れたように三郎の突込みが入る。

「いやいやいやいや、そういうつもりじゃなくって、僕は最悪の事態を想定して」

慌てて首を振るその姿のギャップに、さっきまでの張っていた肩の力も抜けた。

「ははは、いいんだ。大丈夫、ありがとう。考えたところで、俺は俺にできることしかできないってことがよくわかった。

グダグダ情けなくてすまん。ありがとう」

自分で言いながら、気持ちが前向きになってくる。

単純だなぁ、と他人のことのように思った。

それを聞いた二人は顔を見合わせた後、ぶっと噴き出した。

「まぁ、明日の夜は頑張るんだな。難関だぞ、六年長屋は」

「わかってる、まぁでもそれ乗り越えてナンボだろうし」

「でも意外。食満先輩って、そういうイメージじゃなかったなぁ」

「っつーか竹谷からかわれてんじゃないの」

「あ、それは…ありそうだよね(笑)」

一通り2人で言いたい放題言った後、

おんなじ顔は飛び切りの笑顔でこちらを見る。

「「応援しているぞ、八左エ門」」

三郎がそ、っと含み笑いしているのが目の端に見えたのが、妙に焼きついた。




2人を帰して、とりあえず湯を使って、

布団に入れば相変わらず考えても仕方のないあれやこれやは頭を巡ったが、

覚悟というのはすごいものだ。

腹をくくってしまえばなんとか乗り切れる気がして、

夢のような、そして悪夢のような一夜は、気がつけば開けていた。