満月<1>




トラップをくぐりぬけて山頂を目指す。

あの雲が山で一番高い木を追い越す前に、

体中の神経がぴぃんと張り詰めて、

ひゅう、と喉が鳴る。



あの上弦の月の晩。

思い知った自分の感情のやりばのなさ。

食満を想えば、どうしようもないほど焦がれてしまう。

いつからだったろう、こんな気持ちに気がついたのは。

いつの間にか話ができるようになっていて、

いつの間にか名前を覚えてもらって。

目の端々に食満を見ていた。

下級生になんだかんだと頼られては世話を焼いているところ、

会計委員長とつまらないことで大喧嘩しているところ、

一人残って小物の整備をしているところ、

誰かに笑いかけているところ…

たくさんの積み重ねが知らず知らずのうちに、

こんなにも溢れそうなものになっていた。



あの晩。

酔っていたとはいえ、気を許してくれた食満に露呈してしまった自分の素直な気持ち。

竹谷は自分で自分が怖いと思った。

ややもすれば、今にも想いを告げてしまいそうな感情を

今も胸の中に抱えているということに。



―…なかったことにしよう。



この想いなんて、全部、なかったことにしよう、そう思った。










目で追うな、なんて無理だ、という自覚はあったので、

あえて自分に課してみた宿題。


目で、追わない。

たとえ気になって仕方なくても。



決め事にすると案外守れるものだった。

それから、なるべく用具委員会のあたりには行かないようにした。

用事があっても、後輩達に頼んで行ってもらうことにした。

なるべく会ってしまわないように。

狭い学園のなかだから、それはとても難しかったけれど。


決め事を破ったときは鍛錬時間を増やすことにして。

目で追わない、

ただそれだけのとても難しい宿題。


そうは言っても、六年の集団を見かけてはその姿を探してしまうような薄弱な精神。

数日たって、どうにもならなくなって夜中まで自主練に出かける日々が続くようになった。

一人でもくもくと身体を動かしているときは、頭の中は真っ白になる。

なんにも考えなくていい。

それならそれでよかった。



―心にふたをすれば、なくなるものじゃないかと思ってたんだ。

 見えないところで膨らんでいくものだなんて、思っていなかった。


日に日に募っていく思いが、やっぱり怖くて。

ただただ、がむしゃらに身体を動かす。









山のてっぺんにたどり着いて、

木の一番上まで上って、とりあえず一番見通しのいい枝に腰掛けた。

さっきまでただひたすらに目指していた場所にたどり着くと、

頭の中からすっかり抜け落ちていたようなたくさんのことが巡り始める。

その中のひとつが、ぱっと浮かんだ瞬間、

息が止まりそうになった。


ばちん、と右手で自分の頬を張る。

目で追わない、そう決めたけれど、

心の中でその人はこっちを向いて笑ったりする。

一番好きなその顔。

心を奪うその顔。

頷くようなそんな笑い顔が焼きついている。



どうしたらいいんだろう、こんなに好きで。

忘れようと足掻いても、立ち止まってしまえばそれをますます強く自覚させられる。



瞬間、ぎ、っと枝が軋んだ。

びっくりして横を見る。

「あ」

満月があまりに物事を鮮明にするせいで、見ない振りすらさせてくれない。

「一人か、竹谷」

声が。

口元は隠れて見えないのに、その声はあまりにも耳に明確に届く。

「…っぁ……はい」

かぁぁっと熱がこみ上げてきた。

目で追わなくても、こんなふうに前に現れられたら。


―音も気配もすべて消して、そこにいたのは

 恋しくて恋しくて、だからこそ心から追い出そうとしていたその人。



「け…食満先輩もお一人ですか」

喉が乾いて乾いて声を紡ぐのもやっとだった。

「あぁ」

顔半分は頭巾の布に隠れ、

鋭いあの目つきだけがそれでも柔和にこちらを見る。

「山の頂上を目指していたら人影が見えたから追ってきたんだ。
 ずいぶんと集中していたみたいだな、追いつくのがやっとだったぞ」



胸が苦しくなる。

この人が自分を認めてくれている、と思ってしまう。

そんな風に見られると、嬉しくなってしまって。

嬉しいから苦しくなってしまう。

苦しいから、目を背けたくなってしまう。


「最近、あまり会わなかったな」

その目の先には、月がある。

視線が合わないという、それだけがせめてもの救いだった。

「そ、そうだったでしょうか」

あまりに図星で必死にとぼけたふりをした。

自分の存在など、この人は考えたりしないと思っていたのに。



もう、手を伸ばせば手が届くすぐそこに、

しっかりと体温を伴って存在している姿かたち。

どうしようか、胸ばかりがこんなにざわめいて息が苦しい。


「また、近いうちに酒でも飲まないか。したい話もある」

こちらの思いなどお構いなしに、食満がそう言った。



えぇ、喜んで、




竹谷は笑った。

こんなに情けない気持ちで笑ったことはないような気がする。

誘われて嬉しいと思う気持ち、

そして自分が遂げたい思いのあまりの浅ましさ。



「す、すいません、先に…学園に、戻ります」



木から降りようとした腕を、食満に掴まれる。

「…竹谷」

「なんでしょうか」

泣きそうだった。

こんな自分は嫌いだから、余計に食満に見せたくない。



鬱々とした心持で上を見上げる。

薄ら明るい夜を背負って、食満が言う。

「逃げるなよ、そんなふうに避けられたら私でもなにかあったと思うだろ」

その目は、咎める様でもなく、ただ真剣な問いだった。


泣いてしまえればいいのに、と思った。

しかし、これしきのことで泣くような繊細さなど持ち合わせてなかった。

口をつぐんだまま、ただ食満をじっと見つめた。


目で追わない、と決めた人。

でも好きで好きでどうしようもない憧れて止まない人。



「竹谷、私は」


瞬間、耳をふさいだ。

これ以上優しい言葉を聴いてしまったら、また戻れなくなってしまう。





しかし、そこにふっと柔らかく触れたのは食満の髪の毛で、

その後にくっとかかった圧力は、



―願ってもない唇。





パニックになった竹谷は脚を滑らせて落下しそうになった。



「なっ…あぁぁっ…あ!、あのっ…」

なんとか体勢を立て直して、頬に手を当てながら食満を見る。

慌てすぎて、こんなふうに自然に目を合わせたのは幾日ぶりだろう。

目の前では、頬を真っ赤にして遠くを見る食満。

「…ここ数日、お前のことを探してばかりいた」

ちょっとだけむっとしているように見えるのは…気のせいなのか、そうじゃないのか。





心にふたをすれば、

なくなるものじゃないかと思ってたんだ。

見えないところで膨らんでいくものだなんて、

思ってなど、いなかった。



それだけじゃない。

自分の心の中ではなくて、

自分の心の外で膨らんでいくことがあるなんて、

本当に本当に微塵も思わなかったこと。




「ど、どうして…」

「聞くな、阿呆竹谷。…いや、阿呆は、私も…か」


ぽつり、と食満が言う言葉が、竹谷には現実のものには思えなかった。

都合のいい夢か?と何度も自分に問いかけた。

装束の裾を引かれ、促されるまま二人は再度枝の上に腰掛けた。


「…お前、女郎を抱かなかったんだってな?」

あきれたようなため息をつきながら尋ねられる。

「誰に聞いたんですか…」

雷蔵が喋るとは思えない。そうなると三郎か、と合点がいった。

「無理する必要なんかない、って、言ったのは先輩です」

ばっ、と食満は竹谷の顔を見た。

そして目を細める。

「まったく、阿呆だ」

「…ど、どうとでも言ってください……」

「あぁ、阿呆だ。それが嬉しいと思った私のほうが、もっと」

食満は遠く、月を見た。




「お前が好きになりそうだ」


竹谷は、耳を疑う。



「ここ数日、お前に話したいことがあったのに会えなくてなぁ

 …ずっとお前のことばっかり考えていた気がする」


時折、月を覆いつくす大きな雲。

その一瞬の暗闇にまぎれて、食満はす、っと姿を消した。





「明日の晩、六年長屋に忍んでこい。誰にも気付かれるなよ」


耳元にそう言い残して。



竹谷は、慌てて叫ぶ。





「俺はっ!…ずっと、前からです」




声は暗闇に吸われていった。



月と雲が折り重なった、その瞬間だった。