その人の話




長屋に戻ると、伊作が薬を調合していた。

甘苦い香り。

一瞬足がためらったが、呼吸を整えて中に入った。

なるべく自然に、伊作の斜め横あたりに座った。

落ち着いて二人で過ごすのはなんだか久々だった。

もちろん、食満自身がそういう時間を避けていたのではあるが。


「なぁ、伊作」

「ん?」


鼻歌でも歌いそうな雰囲気で返事をする。

こういう態度が忍びらしくないと、文次郎はいつも怒鳴っていたはずだ。

「どうして潮江なんだ?」

「え?いまさらそんなこと聞くの〜?」

相変わらず、作業の手もとめずに茶化したように返してくる。


「どうしてかなぁ?…んー、そうだな。もんじにずっと心配されたかったから、かも」


ずっと、か。

少し悔しくもあった。

「留は、そういう気持ちになったりすることはないの?」

大きなまるい目が、まっすぐにこちらを向いた。

「そういうって…」

「誰かといて安心したり、一緒にいたいと思ったり…そういうのって、ない?」

こういう時の伊作のまっすぐな質問はあまりにも真摯なもので、

ごまかしたりなどできなくなってしまう。

しかし、じ、と見つめられても、出てくる答えはなかった。

「じゃ、逆にさ。会えなくて心配とか、一緒にいなくて不安とか」

首をかしげるようにして問われてみれば、

なんとなく、心に引っかかるようなものは、あった。



―会いたくて、会えない相手に対する、不安。



黙り込んだ食満に、伊作は言う。

「今は聞かないよ。でも、話せるようになったら私に一番に話してね」


薬草がすり潰されていく音がまたし始める。

食満はただそこに座ってそれを聞いていた。



三郎の言葉を思い出す。


『大事な人との約束』


竹谷がそう言ったということに、胸が痛んだ。

誰のことなんだろう。

『約束』

…二人で酒を酌み交わした晩に、自分が言った言葉がもしもそれなら。

自分が、竹谷にとって大事な人だとしたら。


それはなんだか、悪い気分ではなかった。


女郎に気に入られる竹谷、というのを想像してみる。

困った顔をしただろうか。

優しい言葉をかけただろうか。

あいつのことだから、傷つけないように労わっただろう。



「なぁ、伊作」

「なに?」

「お前さ、潮江の奴が知らないところで他人に優しくしてたりしたら、どうだ?」

「…そりゃ…いい気分はしないさ。嫉妬するなぁ」


胸につきささるような思いがした。

『嫉妬』

そんなこと、考えたこともなかった。

自分が見ず知らずの女郎に嫉妬しているなどと。




「…悪い、伊作。ちょっと頭を冷やしに行ってくる」

「?う、うん」




もしもこれが、伊作が潮江について抱く気持ちと同じならば。


食満は、逡巡する思考回路に戸惑いを隠せなかった。