突然声を掛けられて、繕っていた針と天幕を落としてしまった。
「さっきからずっと同じ形で固まったまんまだし、なんかあった?」
この部屋は、いつの間にやら駆け込み寺のようになってしまっている。
けが人が出れば、伊作を頼りに、
物が壊れれば食満を頼りに、
何かに付けて用事を抱えたもの達がやってくるので
出入り自由の部屋という位置づけになってしまっているようだ。
「あのさ、これ、直してくんない?」
小平太が豪快に差し出したのは底の抜けた首桶だった。
「いつもどおりアタックしたらさ、これに見事にぶち当たっちゃったんだよ〜。
吉野先生にばれるとやばいから、よろしく!」
ぱぁんと柏手を打つような音で顔の前で手を合わせる。
「…しょうがねぇなぁ」
首桶を受け取ると、助かった〜と安堵の表情を浮かべた。
「そういえば、伊作は?」
一瞬ですっかり首桶のことなど忘れたかのように話題が変わる。
こいつは全く懲りてない、とため息の出そうな気分だった。
仙蔵が居ればこっぴどく叱り付けていたことだろうが、
あいにく、い組は実習で数日留守にしている。
「伊作は当番で医務室だ」
「へぇ、そっか」
尋ねておきながら大して興味もなさそうな返事をした小平太をそのままに、
食満は首桶を手元で上に下にしながら、修理箇所を見繕い始めた。
最近、まったく気がそぞろだ。
小平太に声を掛けられるいったいどのくらい前からぼんやりしていたのか、
自分でもわからないくらい。
原因には気がついてはいるが、理解はしたくなかった。
一昨日の晩の出来事。
それは突然のことであった。
「ね、留…起きてる?」
消灯から少ししたころ、伊作が声を掛けてきた。
「起きてる」
少し眠りに入りかけたところではあったが、目を閉じたままそう応えた。
頭の中が少しぼんやりと雲がかっており、
目を閉じても開いても暗闇ばかりのせいか、平衡感覚も失うような気分になった。
「あのさ、留には話しておかなくちゃな、って思ってたんだ」
「…なんだよ?」
問いかけながら、あまり聞きたい話ではないような予感。
「あのね、私…文次と、」
―文次と恋仲になったんだ。
大声を出しそうになったのに、のどがすっかり閉じてしまっていて言葉に詰まった。
そこからはなんで、どうして、次々に疑問の言葉ばかりが浮かんできた。
「ごめんね、こんなこと言われても困るかもしれないけど、
留にだけは言っておきたいと思ったんだ」
…伊作の口調が、何か吹っ切れたようなもので、
そこには悲壮感もなにもなく、ただ事実を述べるような言い方だったのを聞いて、
もう受け入れるしかないことなのだ、と思った。
「そうか、良かったな」
辛うじて一言、口をついた。
「ありがと、留三郎」
しばらく、目を閉じても眠れなかった。
そのうちに伊作が眠ったのがわかって、そこでようやくため息をついた。
今胸に渦巻いてまとまりそうもない感情を、
誰かにぶつけたい、そんな気持ちになっただった。
どちらのこともよくよく知っている仙蔵や小平太には話すわけにはいかない。
…頭に浮かんだのは、竹谷だけだった。
竹谷になら、なんとなく話せるような気がした。
翌日の夕方は委員会の時間となっていた。
用具委員会はそれほど長引かず、
生物委員会が終わるころを見計らって竹谷を捕まえるつもりだったのだが、
気がつけば伊賀崎だけが残っていて、すれ違いになってしまった。
仕方なしに伊賀崎に声を掛ける。
「委員長代理はどこに行った?」
蛇の背を撫でながら、平然とした顔で言う。
「竹谷先輩なら、そこに…いませんね?さっきまでいたんですが」
仕方なく部屋に戻ってしばらくすれば、おそるおそる近づいてくる足音が聞こえた。
「あのぅ…食満先輩、いらっしゃいますか?」
…見たことのない顔だった。
「あの、一年い組、生物委員の上島一平です…」
じ、っと見てしまったら半分なきそうな顔で名前を言う。
「どうした?」
どうやら、慣れない六年長屋におびえているようだ。
しゃがみこんで目線を合わせてやると、少し安心した様子で、何かを差し出した。
「すみません、用具委員長にお願いするようにと言われて来たんです」
「…修理か」
鳥のえさ箱だった。
…いつもなら竹谷が申し訳なさそうな顔でやってくるのに。
「わかった、やっておこう」
頭を撫でてやると、にっこりと笑って、一平は頭を深々と下げた。
それから数日。
すっかり竹谷と顔を合わせることがなくなった。
さすがに食満も、なにかあったんだな、と理解した。
上弦の月の晩、自分は何か出すぎた真似をしただろうか?
夜になれば夜になったで、伊作が部屋を抜け出すことが増えた。
なんとなく、気が重いと言わざるを得ない日々である。
そしてさらに数日。
ちょうど課外実習帰りの五年ろ組とすれ違った。
とっさに竹谷を探した。
ちょうど視線の先にその姿が見えてかすかに目が合った、と思った次の瞬間には見失ってしまった。
これはもしかすると避けられているかもしれない、と思うしかなかった。
…話がしたいのに。
近くの縁側に腰掛け、ぼんやりと空を眺めながら、漠然とそう思っていた。
「あ、食満サン」
「…三郎か」
ちょうど通りすがった鉢屋三郎が、声を掛けてきた。
制服はところどころかぎ裂きになっている。
実習から帰ってきたままうろうろと歩いていたのだろう。
顔を見れば妙ににやにやしていた。
「なんだその顔」
そう言ってやると、ば、っと顔を変えられた。
「こっちのほうがお好みですか?」
雷蔵だった顔が、一瞬にして竹谷の顔になる。
…あまりの不意のことで、すっかり慌ててしまった。
のど元まででかかったなにかが止まって、ぱくぱくと口ばかりが空回りする。
「…あ〜面白い!さっき、ハチのやつもおんなじ反応でしたよ」
「お、同じ?」
「そうそう、真っ赤になって、ダメだ!自主練に行くって飛び出しました。さっき実習から帰ってきたばっかだっつーのに」
半ばあきれたような口調で。
三郎は、廊下にしゃがみこんだ竹谷と遭遇した日、
その直前に食満とすれ違っていたのだ。
人間観察には人一倍聡い三郎である。
そのあと少し竹谷をつついてみれば、ぼろぼろとその実態が見えてきた。
ほかでもない、大事な友人である。
少しくらいは助けてやりたい、と思わなくもなかった。
いつも雷蔵と一緒に迷惑をかけているからな、と。
「ねぇねぇ、食満サン。聞きました?」
「何を?」
「ハチの再試験の話」
にや、と笑って鉢屋は言う。
あの晩から竹谷とまともに会えていないのだから、聞いているはずもない。
「廓の女郎に、大事な人との約束があるから抱けません、って土下座したらしいですよ。
そしたら女郎のほうが竹谷のこと気に入っちゃって気に入っちゃって。
しばらくすったもんだしてたみたい」
ちら、とこっちの様子を伺ってくる。
「あ、黙っててくださいね。これ、雷蔵から無理やり聞きだした話なんで」
嫌になるくらい含みのある言い方に、食満はイライラが募るのを感じた。
「どうして私に話す?」
鉢屋を睨みつけながら重圧的に言ったつもりだったが、
飄々と胆の据わったこの男は、ひるむということすらなかった。
「さぶろー、さぶろー」
ふいに、遠くでその名を呼んでいる声がした。
やべ、と舌を出して、鉢屋は「今行くー」と大声で叫んだ。
「雷蔵が呼んでるんで、俺は行きます。なんで話したかってのは、食満先輩には言ったほうがいいかと思って」
―なんでも面白いほうがいいっすからね。
そんな声が聞こえたような気がした。