上弦の月




食満が突き当りを曲がり、その背中が見えなくなったのを確認して、

竹谷はそのままそこに座り込んだ。

呆然と月を見上げる。


こんなに臨場感のない夜は初めてだ。

闇も月もこの世を満たすすべての空気も。

全部が作りものように思えた。

風が肌を掠めていく。

体温は少しずつ冷め、顔に出ないとはいえ熱くなっていた皮膚の下も落ち着いてきた。


…なんか、変な事言わなかったか、俺。

変なこと、しなかったか、大丈夫か?


調子に乗ってずいぶんべらべらと喋ってしまった。

いまさらになって恥ずかしさで身体がじぃんとしびれて、

でも、楽しそうにしてくれていたような気がするから、と

自分を 納得させようとしたりして。


手に残る感触を確かめた。

体温、重さ、その人そのものの形。

まだそこに熱があるかのような気さえする。


―酔っていたとはいえ、大胆なことをしてしまった。


変な風に思われていなければいい、という気持ちと、

思わぬところで露呈させてしまった自分の正直な感情。

少し、で良かったのに。

ただの後輩から、少しでも近しい後輩になれれば、という気持ちだけだった。

最初からかなわないと諦めている気持ちでも、

そのくらいなら贅沢ではないんじゃないかと思って。



まさか、だ。

こんな風に触れることがあるとは。

その瞬間、感覚が麻痺してしまった。

こんなに酔っているのなら、どうせ今この時だけのことなら、

記憶のひずみに落ちるくらいのことなんじゃないのか、と。


ささやかだったけれど、竹谷は幸せだと思った。

食満の安らかな表情に、胸がただ満たされて。

相手が忘れてしまったとしても、

自分だけが抱えているには、十分すぎるほどの幸福だ。





「…おい、何やってんだ?」



突然声を掛けられ、驚いて後ろを向けば、

三郎がいぶかしげな表情で立っていた。

「あ、いや」

「風邪引くぞ?」

「う、うん」

突然現実に引き戻されて、頭が混乱してしまう。

三郎は意にも介さない風でしゃがみこんだ。

「なんだ、お前酒飲んでたのか」

「そう、飲んでて」

「…一人でか?」

「い、いや…」

食満の名前を出すのがためらわれた。

三郎に知られたくない、とかそんな理由ではなくて、

名前を声にすることが恥ずかったのだ。

黙ってしまったところで、頬をつかまれる。

食満の指先を思い出して顔が熱くなり、ますます頭が混乱した。

「なんつー顔してんだ、ハチ」

そのまま頬をつかまれたまま引きずり上げられる。

「いだだだだだだだだだっ、離せーっ」

三郎は竹谷の反応に笑うだけ笑って、

早く寝ろよ、と言い残して行ってしまった。




もう一回、月を見上げる。

この気持ちは、潮時なのかもしれないな、などと思った。


本当は今すにでも伝えたいほど、こみ上げている感情。

帰りがけに食満が言ってくれた言葉を思い出した。

そうやって好意的に話しかけてもらえるようなところまで、ようやく行けたのだ。

それだけで、いい。



そうは思っても、少しでも気を緩ませれば暴走しかねないほどの荒々しい心の葛藤。



目を閉じて、深く深く息を吐いた。

少しでも心を落ち着けるために。