朝日


もう追っ手は来ないだろうか。

深まるだけの夜が、あとは明けるだけの夜に変わる頃に忍び込んだ城。

忍務の内容は相手方の城から奪われた重要な書と、

人質に取られた幼子の命を救うことだった。


唯一の味方の動きを背後で感じれば、

無駄なく、かつ大胆な手管であっという間に門番たちを片付ける。

誤算が一つだけあった。

一番奥の部屋で、小さな小さな身体が既に息絶え絶えとなっていた事。

大男たち複数人がその周りで笑っている。

嬲られ抵抗もできない、命が玩ばれた痕。

「…竹谷」

食満の、怒りを精一杯抑えたような声で名を呼ばれる。

「わかってます」

音もなく背後から近寄り、一人の背中に苦無を突き立てる。

ど、と体躯が倒れこんだ音に振り向いたもう一人に手裏剣を投げつける。

食満の視線で指示を受け、

床に投げ捨てられるように横たわる身体を抱き上げる。

こんなに小さいのに、がくりと力が抜けた身体は想像よりもずっと重かった。

戸の奥から大勢の足音が近づいてくるのが聞こえる。

天井裏に逃げ込んでそのまま外へと走った。

「…先輩」

ちら、と横目で視線を合わせて。

「この子、もう息が」

「…あぁ」

すでに息絶えた子の身体を、ただ力いっぱい抱きしめながら、

泣きそうになる気持ちを精一杯堪えた。

たぶん、自分以上に責任を感じているのは、

数歩後ろを駆けるその人だろうから。



山の中に逃げ込み、ようやく張り詰めた緊張感が少し解ける。

食満が手を差し出し、竹谷はそれに応えて子供の身体を差し出した。

ぎゅ、と抱きしめ、頭を撫でた後、

そっと草むらに横たえた。

するりと頭巾をはずして大きく広げ、そこに寝かせて身体を包んでやる。

「すぐに、家に帰してやるからな」

独り言ではなく、子に言い聞かせるようにそう呟いたのが聞こえて、

竹谷はその後ろでまた込み上げてきたものを必死に堪えた。

泣いては、と。

ふ、と目をそらしてそう思った。


「…竹谷、明日、日が昇ったら出発だ」

「はい」


依頼の城は、明日いっぱい走らなければたどり着けない距離。

体力を温存するための数刻の仮眠を取る事にして、

二人で木のたもとに背を預けた。



目の前に広がったのは、朝日だった。

きぃんと音がするほどに冷え込んだ一日の始まり。

吐く息は白い。

「眩しいですね」

「あぁ」

隣にたたずむ彼の人は細く痩せた頬を紅潮させて、

やわらかく微笑んだ。


ふいに、この世の中に、生き物はこの人と自分だけなんじゃないか、と思った。

強い光は世界から色を奪うほどに煌々として、

自らも身体という入れ物を抜け出して魂だけになりそうに感じる。


「神々しいな」

その声を聞いて、漠然と思った。

本当は暗闇なんかよりも、こんな光の下のほうが似合うんじゃないだろうか。

静かに、手を合わせて目を閉じるその人を横目に、

同じように自分も手を合わせた。


昨日奪った命。

奪われた小さな命。

自分たちの身体も本当はまだ死霊の魂に取り付かれているはずなのに、

光に包まれればそれすら浄化される気がした。

どんなに穢れた痛みも苦しみも、無に帰すような気がした。


「先輩」

「なんだ?」

そっと、顎を上げて下から口付けるようにする。

ひんやりとした表面がゆるりと開いたその中で、

外気と熱の温度差。

隙間から冷気が差し込んで、体温はただとろけるように二人の中に落ちていく。

「大丈夫?」

唇が触れ合うくらいの距離を保ったまま、小さく尋ねる。

周りに人なんて誰もいないのに、声を潜めて。

決意を秘めて進もうとする人の心の中に踏み入れようとするのを、

世界のどんな一部分にも知られたりしないように。

「ん、」

食満は、ぐいと身を寄せて、返事をごまかすように深く口を合わせられた。

この人は、泣いていない。

やらなければならないことがわかっているから。

それは痛みを抱えて走るということだ。

それでも失えない優しさは、

しかしそれは弱さではなく人間らしさだと思うから。

だから、絶対にその身を、その心を守りきる。

竹谷はほかの何にでもなく、自分自身の心に誓った。



朝日は昇り、次第に太陽は明るく里を照らし出す。

唇を離して、竹谷は食満の唇をそっと拭った。

身体の半分に太陽光が熱を与えていく。

空気が目覚めるようにその鋭さを和らげて、

世界が生き返るように一気に活気を持ち始めた。



「行こうか」

ぱん、と忍装束を叩いて立ち上がる。

さっきまでの現から離れてしまったかのような気配は既にない。

何一つ迷いなどない。

ただ目の前にある忍務を行うだけだ、という顔をして。

「はい」

少ない荷物を身につけ、大事に大事に寝かせられた子供を抱き上げる。

「この子は先輩が連れていてください。俺よりも…安心すると思いますから」

笑顔でそう告げて、ゆっくりと預けた。

小さな塊になってしまった命を。