贅沢は味方




唐突に手を握られた。

高い所でとんびが飛んでいる。

ぐるぐる回って、とんびが飛んでいる。


「どうした?」

「いいえ」


竹谷がとても自信ありげに笑っているので、

決して悪いことではないんだろう。


そしてその手に少し力がかかって、

思いきり引き寄せられる。

突然のことに私はバランスを崩して、

よろめいたけれど、

竹谷の腕が伸びてきてそれを支えられる。

視線を上げて顔を見れば、

やはり何かとても喜ばしいことのように笑っているので、

たぶん悪いことではないんだろう。


気がついたら、ほんの少しだけ竹谷のほうが身長が高くなっていて、

体格もなんとなくがっしりとしてきたのを、

確かに目では確認していたんだが。

こうやって支ええられてみれば、

ありありとそれが実感されて不思議な心地がした。


竹谷の片手は私の手を握ったまま、

もう片方の腕が背中に回って、

すっかりその胸の中に閉じ込められてしまう。


「倒れますよ」


いつの間にか声変わりして低くなった声。

変声期に苦しそうに喋っていたのが記憶にあるのに、

その前までの声なんてどんなだったか思い出せない。


身体をうまく使って衝撃がほとんどないように、

竹谷は私をそのままに、草っ原の上に倒れこむ。

地面はひんやりとして、土のすんとした匂いが竹谷の匂いと混ざる。

乾いた藁のような匂いに似ている。


「いったいなんなんだ?」


視線を合わせれば、

ご心配なく、という顔をして見せるので、

そんな表情をされては今の私の質問がまるで愚問のような気がしてしまった。


「空を、」


竹谷が腕を高く高く天に伸ばして、

私は導かれるようにその指先のもっともっと向こうを見た。



青く澄んだ空は、雲が風を待ちながら流されていく。



それだけだ。

ほかに何もない。

とんびもいつの間にかどこかへ行ってしまった。



「食満先輩が空を見るときの横顔が好きです」




竹谷は首を伸ばして「内緒ですよ」と私に耳打ちして、

そのまま耳殻に唇を押し付ける。



「あぁ、贅沢だなぁ」


ぎゅ、っと腕に力が入る。

そんな嬉しそうな声で言われては、言い返す言葉もない。



「あなたを見るのすら辛いときもあったけど、
 こうやって手を伸ばせば掴むこともできたんですね」


私は竹谷の顔を見た。

大きな目が、こっちを恥ずかしそうに見ている。


「俺のことを好きになってください」


一言言って、竹谷は掻き抱くように私の頭を胸に押し付けた。

息が苦しい。

「好きになってくれなくても、ずっと好きです。それでいいんです」

明るい声だ。

竹谷らしい、明るい声。

それなのに、とても揺るぎのない色をした言葉で。

「だってね、先輩のこと好きじゃないでいる方が、ここが苦しいから」

繋いだままの手が竹谷の心臓の上に乗せられた。

とん、とん。

竹谷は、それから手を離した。

掴まれていた皮膚の下にじわっと熱があふれる。

竹谷が上半身を起こして、手を差し出す。

それを掴めば引き上げられるように立ち上がれる。

「草だらけですね」

着物から払いながら、笑って。


いつからこんなに、強い男になったのか。

気がつかないうちにちゃんと自分のことは自分で決めて生きている。

「贅沢か」

意思の強そうな愛嬌ある眉をちょっと上げて、ん?とばかりにじっと見ている視線。


「何があっても自分を好きでいてくれる奴が傍にいるというのは、この上ない贅沢だな」



たとえばこのままどこまでも疑いのない空の下で、

この明朗活発な年下に甘えてしまうのもいいのかもしれない。

引き上げてもらった手を、今度はこっちから思い切り引っ張ってやろうか。


揺るぎのないものなんて、

変わらないものなんて、

この世界にはたぶんきっと何もないと思っていたけれど、

―だけど。

そんなふうに思わせる。





馬鹿みたいなくらい嬉しそうな顔をする竹谷を、

私はたぶん、同じような気持ちで見つめた。





「お前は、私の一生ものだな」





はじめて自分から引き寄せたその身体は、

さっきよりも熱くて、

なんだかずっと前から自分のものだったような気がした。