闇に降る雨
今日は雨が降るかもね、という誰かの呟きも、
的中はせずどんよりとした空模様がただ続いているまま昼下がりを迎えた。
こんな日は天候に左右されやすい心持で誰かを傷つけたりしないよう、
部屋で一人、文机につっぷして目を閉じている。
眠気は私の手を引くが、ふいにその手を離しては私を現に突き落とす。
うとうとと船をこぎ、本当は見たいと願う夢ばかり思い描いた。
五年生が実習に出た。
行ってきます、とだけ言って行ってしまった恋人のことを思い出す。
出発の前の夜、部屋へやってきて、
「席、はずそうか」
そう気を遣った伊作に、お構いなく、すぐ戻りますんで、と笑顔で言い、
「明日の朝発ちます、ご挨拶だけはしておこうと思って」
そうきっぱりと言った。
夏休みが終わる頃の五年生の実習、が意味するものを、
食満も、同席した伊作もよく知っていた。
自分達も通ってきた道だからだ。
命を落とす者もいる。
ここで学園を去ることを決める者も。
人を騙し、欺き、殺めることをも辞さずに、
ただ目的を達成して生きて帰ることができるかどうか、
その素質を見極めるための過酷でひどく現実的な実習。
学園に入ってからの数年はこの日のためにあるのだろうと、
そのとき思ったものだ。
そして今自分がこうやってここで学び続けているのも、
あの日があったからだと、思う。
伊作がしばらく夜眠れずに、何度も何度もうなされて過ごすのを、食満は見ていた。
伊作もまた、食満が数日食事もろくに取れずに、
それでも倒れまいと何かに耐えていたのを知っている。
「食満先輩、伊作先輩」
竹谷は二人の顔を見て、ただ、頭を下げた。
そして、一言、
「行ってきます」
そう告げた。
伊作は少し泣きそうな顔で、
「気をつけるんだよ」と言った。
食満は、ただ、口をつぐんでいた。
掛けたい言葉などいくらも浮かんだが、
生と死の狭間にいる人間に告げるべき言葉など、
結局のところなにもかも気休めにしかならないと感じてしまう。
言葉を発することもできず、ただ竹谷の目を見つめ、
竹谷もまた、穏やかな表情でその視線を受け止めていた。
「…留、」
心配そうに、伊作が袖を引っ張った。
何か言ってやれ、と急かしているのだとはわかった。
それに後押しされるよう、なんとか口を開く。
喉がからからに乾いて、ごくりと唾を飲み込んだ。
「竹谷」
「はい」
…生きて帰ってくれ、とも、死ぬな、とも。
待っている、とも頑張れ、とも言えなかった。
言葉に出来ることなど、結局その程度のことなのかもしれない。
命を奪われそうになったらどんなことをしてでも生き抜いて欲しい。
かといって、逃げ回るだけではいけないこともわかっている。
気休めは言えないと思えば思うほど、言葉は奪われた。
しかし、何も告げなければ、きっと後悔すると、それだけはわかっていた。
膝においていた手を、強く握り締めた。
互いに、視線はずっと交わしたままで。
「…祈ることしか、できないが。」
そう告げて、なにもかもこの目線から全て感じ取ってくれたなら、と
そんな思いを込めて強く、強く、真っ直ぐ見ていた。
「ありがとうございます」
竹谷は笑顔でまた深々と頭を下げた。
「それでは、失礼します」
「あぁ」
ただ、それだけ。
「ねぇ、あれで良かったの?明日をも知れぬ身だって…わかってるのに」
勝手に隣で泣きかけていた伊作が、少しだけ責めるように言った。
気休めで、真実に迫らない無責任な言葉になるくらいなら何も言いたくないと、
それすらもうまく言葉にできなかったので、ただ、口を噤んだ。
そして、一週間。
噂に聞けば、歩いて3日は掛かる場所の実習だとか言う。
雨は降らなかった。
少しずつ天候はぐずついて、今にも降り出しそうではあったが。
情報など、その程度で一切入ってなどこない。
太陽の光を十分に浴びていないと心を病むよと伊作が言っていたが、
その通りだろう。
しかし、太陽など、日に日に顔を見せなくなった。
明るいはずの昼下がりすら、灰色の空をして。
厚い雲の下では、ただただ堂々巡りの行き場のない気持ちを抱えるだけだ。
眠ることさえできれば、少しぐらいは。
時間も気付けばすぎていて、
竹谷が戻るのを待つもどかしさなど、感じなくてすむはずだと。
しかし、ここ数日覚えている夢といえば、
竹谷がこの世から消えてしまっているということが前提だったり、
一年も前の実習で、からがら助かったこの命が、奪われるようなリプレイ。
ばたばたと、裸足でかけてくる足音が聞こえる。
雨が来るぞ、戸を閉めろ、
そんな声が廊下に響いた。
あぁ、やっと、雨が降るのか。
一気にその姿を現した豪雨は、ただただ地面を打ちつけ、屋根を叩きつけ。
つんざくような騒音で、食満は一人、暗闇に閉じ込められたような気持ちになった。
しかし、それは不快というよりは、どこか安らぎすらある、闇。
耳に響き続ける音が、
余計なくだらない想像を頭から追い出してくれる。
しかし、ふいに、戸を隔てていたその雨が、明確に耳に届いたのを聞く。
それに併せて、冷たく、しぶきを含んだような空気が入り込む。
ゆっくりと振り向く。
緩慢な動作は、現実に目を向けたくないという自分の心の留め金か。
しかし、そこにいたのは伊作だった。
その背後では、雨が勢いをつけて白くしぶきを上げている。
「留…来て!五年生、帰ってきたよっ」
頭から肩、そして足元を濡らし、
おそらく保健委員は動員がかかったのだろう。
あいつは無事か?
その一言が聞けなかった。
今そんなことを聞いて、そんな弱い人間だったと自分で認めることがいやだった。
「早く来て!」
自分の目で、確認するといい、と。
けが人を前にしたときの伊作は、普段から想像できないほど明確な判断をする。
「1、2年生には見せられないから、人手も足りてないんだ」
早足で伊作は状況を説明しながら歩いた。
「他の六年にも手伝ってもらってる。まず、留は…、竹谷くんが無事か、見て」
雨は降りしきる。
騒然とした、ただ嫌になるほど静かな、荒々しい日中に。
救護室と化した座敷に差し掛かると、
開け放たれた廊下に、力なくもたれかかった数人の姿が見えた。
床は濡れて暗い色になり、それが雨なのか泥なのか、それとも、赤い血かも、
正直言ってよくわからないほどだった。
ただ、水槽のような水の匂いと、血なまぐさい匂いが埋め尽くす。
「伊作先輩!こっち、お願いしますっ」
保健委員の声が響く。
おそらくただ単純に負傷だけではなく疲労もピークに達している。
怪我か体調不良か、それとも動けないでいるだけか。
見分けがつかないような状況だ。
中在家や立花、潮江が一人ひとりに声を掛け、状態を確認している。
「…食満サン」
背後から名を呼ばれ、慌てて振り返ると、
肩口から腕にかけて包帯でぐるぐるまきにされた鉢屋が弱弱しく手を振っていた。
「…っ、無事か」
「バッサリやられちゃったけど、まぁ、無事っす」
ようやくよく見知った顔を見て少しだけ気持ちが平静になってくる。
「竹谷探してんでしょ?」
冷やかしではなく、ただ当たり前のようにそうたずねられ、
いつもならそうはできないが、あっさりと食満も頷いた。
「あいつ、負傷者の救護にあたってたから、たぶんまだ戻ってないよ」
そうか、と。
生きているんだな、大きな怪我もないんだな、と。
それがわかったら、不意に肩の力が抜け落ちたような気持ちがした。
「それなら、いい」
それだけ返答を返し、食満は室内に戻った。
そして、制服を血で染めて下を向いたまま動かない五年の肩に手をかけ、
他の六年と同じように保健委員の支援に回った。
「雷蔵、大丈夫?」
鉢屋は後ろですっかり身を預けている不破に声を掛ける。
「うん…なんかもう、目開けてるのも辛いけど」
不破の方はところどころかぎ裂きになっているものの、大きな怪我はないようだ。
たいてい鉢屋がおとりとなって不破が相手を仕留める戦法を取っているせいだろう。
「食満先輩、すげぇな」
「…そうだね」
「俺なら、他の奴かまってる余裕ないけど」
視線は、食満の背中を見ていた。
ぐったりしている下級生たちの頬を軽く叩き、声をかけている。
「三郎と一緒にしちゃダメだよ、食満先輩、元々しっかりしてる人だから」
不破はそう言ったきり、もう無理、と呟いた。
「寝ろ、とりあえず」
鉢屋は身体を傾け、不破の身体を受け止め、その身を守るようにして抱く。
不破がいなければ、おそらくこの程度では帰って来れていない、そう鉢屋は思った。
伊作は消毒や縫合に追われていた。
「手伝うか」
食満が声を掛けると、
「じゃあ、身体、押さえててあげて」
一つ笑みをこぼしてそう言った。
麻酔も十分にない状況下、痛みに暴れる身体を全身で押さえつける。
命のないもの、帰れないほどの重傷者は、
おそらくここにいない教師達がなにかしら手を回して処置しているはずだ。
「竹谷くん、まだなんだってね」
「あぁ」
言葉を交わしていても、その手は的確に動いている。
「迎えに行くかと思ってた」
「…戻ってくるまでが実習、だろうが」
「ふふ、遠足みたいなこと言うね」
正直言って、迎えに行くなど、微塵も考えたりしなかった。
生きているとわかった時点で、それでもう大丈夫だった。
「伊作」
そこに潮江の大きな声が聞こえた。
「こいつ、骨をやっている。添え木を頼む」
足を引きずった濃紺の制服に肩を貸しているのは、潮江と、
そしてもう一人。
足を酷く腫らした負傷の生徒を伊作の近くに座らせ、
水にもぐったかのようにずぶ濡れの竹谷に、食満は手ぬぐいを渡す。
受け取ってから小さく、あ、と少し照れくさそうな顔をしてみせた。
こんな近くで自分に気付かないほど、必死になってたどり着いたということだろう。
「…怪我は」
「大事ない程度です。それより、風邪引きそうですけど」
竹谷は、力なく笑った。
いつもと変わらない笑顔ではあったが、疲労が深く見えた。
食満は上着を無造作に脱ぎ、竹谷に投げ渡す。
「とりあえず、それ羽織ってろ」
少し驚いたような顔をしていたが、竹谷はそれを大切そうに掴んだ。
「…ぁ、りがとうございます……はぁ、あったか…」
伊作が横目でそれを見て、小さく微笑んでいた。
鉢屋と不破は寄り添って眠りに落ちていた。
潮江が「戻る奴らはこれで全員らしい」と伊作に告げた。
立花が「着替えと風呂の用意ができているから、動ける奴らは連れて行っていいか」と言い、
私も手伝う、と小平太が言った。
中在家は一人、外を眺めている。
雨は、まだ強いままだ。
少しずつ、救護場所の部屋から人が動き始める。
竹谷は、食満の方を見ていた。
それに気が付いて、食満は竹谷の側へ寄る。
何も言わず、ただ手を伸ばして、竹谷の頬に触れる。
しとどに雨に濡れた肌はまだ冷たく、滴るようだった。
「…どんな小さな虫でも、同じように一つの命だって、あいつらには教えてたんですけどね」
ぽつりと呟いた言葉に、
食満はその顔から目をそらした。
泣くのかと、思った。
見られたくはないだろう、と。
「馬鹿げてますよね」
それはなにに対してだったろうか。
ひどく悔しそうで、自嘲的で、はき捨てるような、でも、悲しい声色。
食満は、竹谷の手を、右手を、ふいに掴んだ。
驚いて筋肉が震えたのが伝わってくる。
そのまま、少し落ち着くまで握っていてやろうと思った頃、
竹谷の手が、その右手と食満の手の上に重なってきた。
「それでも、生きて帰らなきゃって、思ったんです」
腕が、食満の身体を包んだ。
竹谷は、とても明確な意思でその身体を抱いていた。
そのまま肩に顔をうずめて、
滴り落ちたのは雨に濡れた雫ではないとわかった。
はぁ、と深く息を吐いて、
ときおり横隔膜を震わせているのが伝わってくる。
涙が肌を濡らす、生ぬるい感触に、食満はただ、その背に腕を回した。
雨は、今夜はきっと止まないだろう。
そんなことを考えていた。
豪雨に冷やされた空気に触れた肌と、
竹谷の温度が重なった部分。
確かに、そこには生きた身体が二つ、重なっているのだと思えた。
そして二人とも、深い深い闇を通り抜けてしまったこの身体は、
この先もさらに暗くまどろんだ闇に投じられるために存在している。
それでも、いや、それならばせめて、
今くらいはこうやってただ、身を寄り添わせていたかった。