たからもの


長く愛用しているつげの櫛は色を変えて、

するすると髪の毛の間を通る。

この人の髪の毛を何度か梳いていくうちに、

この櫛は油を吸い込んでいくはずだ。

それはとても幸せなこと。

俺の大事な仕事道具は、俺そのものともいえる。

俺の一部に、この人が。

なんて幸せなことだろう。



「今日はどうします?」

さら、さら、と音がしそうなその流れ。

手入れの甲斐があったな、とつい悦に浸ってしまう。

「あー…いつもどおり」

「もったいないなぁ」

「髪なんて邪魔にならなきゃそれでいいだろ」

「先輩、こういう髪型も似合うのに」

前髪をすらりと一筋残して少しだけ遊びを利かせた髪形にする。

目の前に鏡のひとつもあればきっと気に入ってもらえるんだろうけれど、

縁側に座って庭を眺めているだけの先輩は、

また派手な髪型にして遊んでいる、と思っているだけだろうか。

それとも庭の草とか雀とか、そんなものに気をとられて、

俺の言葉など耳にも入っていないのかもしれない。

似合うのに、もったいない。

俺はちょっとだけ残念がりながら、いつものように髪を結う。

髪をいじられているときは、先輩は変におとなしい。

かといって気持ちよさそうにもしている様子ではない。

ただ、そこにいる。

人形相手に髪を結う練習をしているような気分にすら、なる。

いつの間にか肩に抜け落ちた一本の髪の毛をそっと払う。

触れば、ちゃんと温かいのだけれど。

本当に体温かなぁ。

首筋から覗く、太陽の光がその身体を陽だまりのような温度に持ち上げているだけかもしれない。

不安になって、つい声をかけてしまう。

声をかけた瞬間、少しだけ負けたような気分になる。

俺はこの人が好き。

俺はこの人に気に入られたい。

ちゃんと、俺がそこにいることを、認識して欲しい。

そんな欲求を、悟られるのではないかと思ったりする。



「久々知先輩」

「ん?」

まっすぐに庭を向いて、鼻にかかったような返事。

「俺ね、先輩の背中、好きなんですよ」

ただ、背後から見ているうちに漠然とそう思って、だからそう口に出して。

「背中」って言ったよな、って、口に出してから少し焦る。

「なにそれ」

この人の質問の仕方はいつも潔い。

そこにある事実の確認という口調で、とてもまっすぐに、折り目のない言葉を吐く。

「なんもかんも拒絶してるように見えて、

なんにも拒絶してないって感じがして、居心地いいから」

俺も、答えが真剣になる。

客商売していると、他人にあわせてそれなりの応対するのが上手になる。

だけど、そういうのは違うって思うのが、先輩と二人で話をするとき。

それらしいことや、適当な言葉を言えば、見抜かれてしまうんじゃないか、と思うから。

実際にはそんなことをこの人は言わないんだろうけれど、

そんな奴だと思われたくない、その気分。

これが恋っていうやつ? そうだよね。


言葉を発言しながら考えていく。

だんだんにまとまってくる感覚がある。

この距離の詰めて行き方が好き。

俺の言葉を、先輩が受け止めて、またそれを受けて俺が言葉にして。

少しずつお互いの間に落ちてくるもの。

俺はそれが宝物みたいに見える。


「先輩。俺、先輩に会えてよかったなぁ」

口に出してみたら、

ほんとにそうだな、と思った。

親や先生から教わることとは違うものを教えてくれる先輩。

「へぇ」

あぁまた雀でも見て俺の言葉なんて聞いちゃないでしょう?

「ね、ね、俺のこと、嫌いじゃないでしょう?」

「嫌いだよ」

「嘘つき」

「火薬の在庫表のつけ方を覚えたら少し嫌いじゃないな」

「…あは、は…スイマセン」

「まぁ、ちょっとずつな。頑張ってるタカ丸さんは偉いと思ってます」

かぁ、っと顔が赤くなる。

こっち向かないでね、って心の中で思いながら噛み締める。

「俺、頑張るね」

「まぁ、ほどほどに」




たくさんの言葉はなくても、ただ穏やかなやさしい時間。



「これから先も髪を結わせてください」

「ん」

「あ、これプロポーズですよ」

「はっ?」

「嘘です。でもちょっとほんと」

「…いいから、早く結えよ」

「はーい。終わったら、勉強教えてください」

「あぁ、いいよ」



もうしばらくずっとこうしていたい。

私のたからもの。